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2008.12.01 (Mon)

幸運の女神 第14話

離婚届のサインの文字は、紛れもない琴子の文字だった。離婚届と同封された手紙、いや手紙とは呼べないメモ1枚。

『入江くんへ 名前を書いたらこちらへ送って下さい。そちらで出してもらっても構いません 琴子』

「…あいつにしては、手回し、良すぎじゃねぇか」
恐ろしいくらいに、よそよそしい言い回しの文章。
しかし、この琴子らしからぬ気の回りようで、琴子が本気だということが感じられる。そして、また離婚届に目を戻す。


【More】

いくら考えても考えても、こんなものを送りつけられる理由が全く分からない。
大体、こういうものは送ってくる前に何か話があるものではないだろうか?
正直、1か月半、いや神戸に行く前からだからもう2か月以上前になるのか、2人でまともな会話を交わしたのはあの屋上での言い争いくらいなものだ。

そもそも、琴子という人間は、自分の言いたいことは、はっきり言う人間だ。
よく言えば隠し事のできないタイプ、悪く言えば、考えていることがすぐに態度や表情に出る。
大学落第騒動の時だって、大喧嘩の末、「知らない男性と不倫しちゃうから!」と不倫宣言をして家出したくらいだ。
今回もこういうものを送りつける前に、「もう離婚!」と喧嘩の一つがあった末のことなら、まだ理解できる。
いや、今回のことだって、何か考えていることがあって、様子がおかしいことはわかっていた。
それをゆっくりと時間を取って、聞いてあげればよかったのか。
最初はそのつもりだった。しかし、問いただした時、琴子は直樹に隠した。その時、直樹の頭に琴子と啓太が2人でいた様子が思い出され、話を打ち切ってしまった。

「あの時、つまらない嫉妬なんてしないで、話をすればよかったのか?」
今になって後悔しても遅いのだろうか?神戸の話だって、本当は止めたかった。
でも、琴子が自分に依存したくない、看護師として少し勉強したいと本気で思っているのなら、背中を押してやらねばと自分に言い聞かせて、神戸へ送り出したつもりだった。必ず帰ってくるのだから…。でも、
「俺はもう必要ないってことかよ」
また、独り言を繰り返す。

その夜、直樹は一睡もせずに書斎で朝を迎えた。机の上の離婚届にまた目を向ける。
「…それが琴子の望むことなら、望みをかなえてやることも、あいつへの愛情なのか」
そんなことを考えながら、机の上にある2人の結婚写真に目を向けた。
「あいつから別れを告げられる日が来るなんて、考えたこともなかったけど」
直樹は病院へ出かけていった。

「相原さん、最近シフト厳しいんじゃない?」
直樹の元へ手紙を出してから1週間がすぎようとしていた日の夜のことである。
「えっ?」
同僚の看護師から声をかけられて、琴子は、
「そんなことないよ。あたし、覚えることが山ほどあるから、いろいろ体験したいし。」
と答えた。
手紙を出してからの琴子は、返事がいつ来るかと、家に帰ってびくびくしながらポストの中を確認し、電話の音にびくびくして過ごすことが怖くてしょうがない。自分から要求しておいて返事を拒否するのも勝手だと自分でも思うのだが、怖いものは怖い。結果、勤務のシフトを限界まで入れて、なるべく家にいる時間を減らしているのだった。

「こっちは年中人手不足だから、入ってくれると助かるけれど、あんまり無理しないようにね。そういえば、研修延長の件、返事したの?」
「まだ…そろそろ返事しないと」
早く返事しようしようと思っていたけれど、ついつい忙しいことを理由に延ばしている。

「あれ?今日、戴帽式だったんだ。」
同僚の指し示す方向へ、琴子は目を向けた。神戸医大の付属病院は大学の敷地内に建っている。そこには看護学部も併設されており、ナースキャップをかぶったばかりの、初々しい学生たちがあちこちに見受けられた。

「私、ここの看護学部の出身なんだけど、戴帽式はやっぱり格別思い出があるなあ」
同僚の言葉に琴子も同感だった。
「厳かなんだよね。私の大学のお式もきれいだったな」
琴子も自分の戴帽式を思い出す。

「時々思うんだよね。毎日忙しくしていて、患者さんへの接し方もマニュアル化しちゃっている自分に気付いて、初心に戻らないといけないって」
同僚の話にうなずきながら、琴子は帰宅した。

数時間後、大学の敷地内に琴子はいた。
「えへ、戻ってきちゃった…」
戴帽式が行われていた講堂へ、足を運ぶ。講堂は誰もいなかったが、入口はまだ開いており、舞台中央に置かれたナイチンゲール像の周りだけがほのかに明かりが灯されている。

「私もちょっと初心を思いだすか」
鳥目の琴子は椅子にぶつかりながら、よろけながら、舞台傍までたどり着いた。
「きれいだなあ…」
しばし、ナイチンゲール像に見とれる。
「あの時も一人で残ってたんだっけ…」
数年前の自分の戴帽式に思いをはせ、目を閉じる。
「あの時は、入江くんが学会に言っちゃって、家に帰っても会えないからって余韻にひたってて…でも、新幹線で帰ってきてくれて、ここに来てくれて…」
直樹に抱きしめられて、ナイチンゲール誓詞を暗唱した。今でも言えるだろうか。

「えーと、“我は心より医師をたすけ…”」
口に出して数年ぶりに暗唱してみる。
「ん?“我は心より医師をたすけ…たすけ…”?」
あれだけ必死で覚えたのに、その後が続かない。
「おかしいな…」
何度も「我は…」と言ってみるが、その先が出てこない。戴帽式の時に直樹を心から助けると決意しながら暗唱したことはしっかり覚えているのに。
「もう、入江くんを助ける必要がなくなっちゃったから、忘れちゃったみたい…」
自然に目から涙があふれてきた。
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