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2009.09.07 (Mon)

比翼の鳥 7


【More】

「夜はちゃんとお布団に入って休まないと、体を壊しちゃいますよ?」
お琴はいつものように、握り飯とお茶を直樹の傍に運びながら心配した。
「そんなに書物ばかり読んで、目を悪くしちゃうし。」
夜に家に戻っても、直樹は自室に籠り書物を読んでいることが多い。
「何の本?」
お琴は気になって、ひょいと直樹の後ろから覗き込む。ところが書いてある文字は日本語には見えない。
「…蘭学の本。阿蘭陀語。」
直樹が書物から目を離さずに答えた。
「読めるの?」
「読めるから広げている。」
そう言うと、直樹は手をお琴へ向けてヒラヒラさせた。つまり、『出て行け』という意味である。
「はいはい。ちゃんと寝てね。」
お琴は頬を膨らませて、部屋を出て行った。いつか体を壊す日が来るのではないかと心配であるが、言っても聞く相手ではない。

そんなある日、“事件”は起きた。
その日、直樹は夜遅く屋敷へと戻ってきた。が、屋敷には今日は誰もいない。両親は知人の還暦の祝いの席に、裕樹は友人の屋敷へと招かれており、お琴は…例の許婚と会っているはずだった。
が、玄関を入った時、
「お帰りなさい。」
と声がして、直樹は驚いた。式台にはお琴がいつものように手をついて出迎えていた。
「何でここに?」
誰もいないからゆっくりしてこいと、両親から言われていたはずである。そうでも言わないと、お琴は世話になっている入江家に遠慮してしまうからだった。
「今日、どなたもお屋敷にいらっしゃらないでしょう?」
お琴は笑って答えた。
「直樹さん、疲れて帰ってくるのに誰もいないんじゃ、寂しいだろうなって思って。」
「子供じゃあるまいし。」
だが言葉とは裏腹に、直樹はどこかほっとした気持ちを覚えていた。いつも誰かしら屋敷にいるので、正直、一人には慣れてはいない。

「お夕食は?おば様がご用意していかれたものがあるけれど?」
早速たすき掛けをしたお琴が、着替えてきた直樹に声をかける。直樹は空腹を覚えていたので、用意を頼んだ。
お琴の不器用な給仕で食事を終えると、直樹はいつものように自室にすぐには籠らず、そのまま座っていた。お琴は台所で洗い物をしているらしい。
暫く座ったまま、物思いに耽っていると、激しい物音が台所から聞こえてきた。何事かと直樹が駆け付けると、笊などが激しく散らかった中に、お琴が座り込んでいた。どうやら踏み台を踏み外してしまったらしい。

「何をやってるんだ、お前は…。」
仕方なく、直樹は台所へ下りた。
「ちょっと、届かないから背伸びをしたら…体勢を崩しちゃって。」
怪我はと直樹は訊ねたが、どうやら大丈夫らしい。お琴は立ちあがろうとした。が、足元がふらついてしまい、傍にいた直樹の袖に手を伸ばした。
「おい…!」
突然掴まれて、直樹もお琴を支えきれずに一緒に倒れ込んでしまった。

その瞬間…直樹とお琴の唇が触れた。

「…。」
直樹がお琴の顔を見ると、お琴は真っ赤になっている。それを見ているうちに、直樹は苛立ちを覚え始めた。
「何を赤くなってんだ、馬鹿。」
「ば、馬鹿って…。」
お琴は顔を赤くしたまま、小声で呟くのがやっとだった。その様子を見ていると直樹はなぜか、もっと意地悪を言いたくなってきた。
「これくらいで。」
自分の口を止めたいと思ったが、なぜか心と反してどんどん口をついて言葉が出てくる。
「…大体、お前だって許婚の男とやっていることだろう?」
「…!?」
お琴は目を大きく見開いた。赤い顔のまま、震え始めている。直樹の口は止まらない。
「どうせ…こんなことだけじゃなくて、連れ込み茶屋でも行ってるんだろうが。」
それを言った瞬間、直樹の頭上から冷たい水が激しく落ちてきた。
「な…!」
自分に何が起きたのかと、直樹は上を見た。そこには先程までの恥ずかしそうな表情とは打って変わって、怒りに顔を真っ赤に閉めたお琴が、桶を持って立っていた。

「わ…私と啓太さんは…そういうことはしないわ!そ、そういうことは…一緒になるまでは…って。そして…手だって握るのもたまにしか…。」
それだけ言うと、お琴は桶を土間へ放り出し、部屋の中へと駆け上がって行ってしまった。

「…嘘だろ?」
直樹はずぶ濡れのまま、お琴が去って行った後を呆然と見つめていた。

翌朝の朝食の席に、お琴の姿はなかった。
「具合が悪いって…お布団の中から出てこないの。」
紀子が心配そうに、お琴の部屋の方向を何度も見る。
「嫁入り前の大切な体だからな。何かあったら、大変だ。」
重樹も心配そうに答えた。
「直樹さん、診てあげたら?」
紀子が言うことも、もっともだった。医者がいる家なら、誰もが同じことを言うだろう。
「…どうせ食い過ぎでしょう。」
直樹はそれ以上は何も言えない。自分に原因があるなどとは、口が裂けても言えなかった。
「食べ過ぎって…。」
尚も心配そうにする紀子に、
「ごちそうさまでした。行ってまいります。」
と、直樹はそそくさと立ちあがって、養生所へ出て行ってしまった。


「…お前か。」
お琴は布団から顔だけ出すと、愛猫のナオを招き入れた。お琴に一番懐いているナオは、甘い声で鳴きながら、布団の中へ入ってくる。
お琴はそんなナオを抱きながら、
「…どうしよう。どんな顔をして直樹さんに…。」
と呟いた。

直樹も、お琴と顔を会わせるのが辛くて、それから数日、わざと家には戻らず養生所で過ごした…。


さすがに自宅へ戻って休めと上司から言われ、直樹が渋々養生所を後にしたのは、それから五日後のことだった。
さすがにあの時の自分は言い過ぎたと思う。が、今更謝るにも機会は遅すぎる気がする。
どうしたものかと、橋のたもとまで歩いてきて、直樹はふと、下を流れる大川に目をやった。
「え?」
川の傍には、お琴が立っていた。
何やら、じっと水面を見つめている。直樹は暫くお琴を見ていた。しかし、突然ある思いが、直樹の脳内に浮かんだ。…お琴が入水するのではないかと思った。

「まさか、あれくらいで?」
直樹は一度は、その考えを否定した。が、手も滅多に握らない…そんなうぶな付き合いをしているお琴には、この間の出来事は衝撃的だっただろう。初めてだったに違いない。それで…直樹に身を汚されたも同然、許婚に会わせる顔がないと思いつめて…と直樹は考えてしまった。

「きゃあ!」
お琴は突然、後ろから誰かに手を掴まれて驚いた声を上げた。
「あ、直樹さん…。」
振り返ると、手を握っていたのは直樹だった。
「い、今帰り?」
何でここに直樹が現れたのかと、不思議に思う。
「何やってんだ?」
直樹の問い掛けに、お琴は、
「え?何って…川を見ていたんだけど?」
と普通の返事を寄越した。
「川?」
「そう。この川でおじ様とお父つぁんが一緒に水錬したんだなあって思って。」
お琴の返事に偽りはないらしい。直樹は小さく安堵の溜息をついた。
「帰るぞ。」
直樹はそのまま、お琴の手を握って、川から歩き始めた。

暫く、そのまま二人は歩いた。
やがて、直樹が口を開いた。
「…数に入れなければいい。」
「え?」
お琴は聞き返した。
「…本当に好きな男とじゃなきゃ、数に入れなきゃいいんだよ。…事故だったと思って忘れればいい。」
この間の出来事について直樹が話しているのだと、お琴は気がついた。
「数に…入れない…。」
直樹に聞こえないよう、お琴は小声で呟く。
直樹は気がついて、繋いでいたお琴の手を離した。こんな所を、お琴の知り合いや許婚本人に見られたら大変である。

お琴は離された手を、胸の上で大切そうに合わせた。そして思った。
「もう少し…こうしていたかった…かも。」



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22:52  |  比翼の鳥  |  TB(0)  |  CM(7)  |  EDIT  |  Top↑

*Comment

★数に入れない(TT)

水玉さん、おはようございます。
更新ありがとうございます。
踏み台で足を踏み外した琴子とを助けようとした時重なった唇。
直樹はこんなこと初めてではないだろうと、許婚がいるのだから。ましてや連れ込み茶屋にもと。
言ってはいけない事を、直樹が言っています。
琴子を怒らせてしまった直樹です。
その後もやはり気になるようですね。
そんな時大川を見つめている事この姿を。
まさかと言う思いが。
だから琴子の手を掴んだ直樹です。
直樹琴子の手を握ったまま歩いています。
自然と手を繋いでいるんですね直樹と琴子。
いい感じですね。
直樹がこの間の口付けは数のうちに入れなければいいと。
琴子はそんな風には思えないでしょう。
直樹の事を好きになっているのですから。
直樹もそうなんでしょうが。
tiem |  2009.09.08(Tue) 06:00 |  URL |  【コメント編集】

お琴ちゃんと直樹さんのピースが少しずつ
埋まってきているのかな?
このお互いを意識していないようで意識している
関係が、何ともいえない雰囲気が好きです。
これからお琴ちゃんの気持ちがどうなっていくのかな??
最後の一行が可愛くて好き♪←とっても重要な言葉ですよね???
ゆみのすけ |  2009.09.08(Tue) 09:20 |  URL |  【コメント編集】

直樹とお琴の距離が縮まりつつある中…、
ついに事故とはいえ、口づけを!?
しかも、お琴にとっては初口づけ!
イタキスでは外せないシーンですよね~
直樹は数に入れなければいいと言いましたが、どうなるんでしょう?
二人の心境の変化がますます気になります!!
眞悠 |  2009.09.08(Tue) 09:53 |  URL |  【コメント編集】

★ちゃ‐ん、ちゃんちゃんちゃ‐ん♪

今回のラストの一文を読んだ瞬間に、「時間よ止まれ」のイントロが流れ出しました・・・。アタシの脳内って・・・イタキス仕様になり過ぎだよ・・・

ナオはどんな模様の猫ちゃんかな?お江戸ならやっぱり三毛ちゃん?それともシロ?クロ?いや、トラちゃんかな?
水玉模様だったりして(笑)←どんな猫だよ・・・

さて、この二人、ぼちぼち自覚症状も出てきているようなんですが、その分じわじわと荒波第一波が近づいてきている気がしますわ~。
アリエル |  2009.09.08(Tue) 10:45 |  URL |  【コメント編集】

★firstkiss

わあーっ、よろけたお琴は入江君の袖をつかみ、支えきれない入江君共々倒れてしまい、事故とはいえ結果的にはfirstkissを...
二人の距離がやっと縮まってきた時に....
真っ赤になるお琴に、入江君の言った言葉に傷つくお琴。
さすがに気がとがめる入江君、二人は気まずくなって...
「数にいれなきゃいい」と入江君は言ったけれど、お琴の気持ちは、もう入江君の事を完全に意識してますよね。
これから、どうなっていくのでしょうか?
るんるん |  2009.09.08(Tue) 18:08 |  URL |  【コメント編集】

★ありがとうございます

コメントありがとうございます。

tiemさん
確かに好きでもない相手はノーカウントすればいいんわけで^^;
見えませんが、恋を知らない二人なんですよね、この二人(笑)

ゆみのすけさん
ありがとうございます♪書いている方としては…全て素っ飛ばしてしまいたいところですが(笑)
しかし、前といい今回といい、なぜか琴子より直樹が先に…?という感じな気がする~!!
…私の願望?(笑)
そうそう、最後の一言、受け取ってくれてありがとうございます^^

眞悠さん
いやあ…そろそろキスくらいしてもらわないと、終わらないなあと思いまして(笑)
なあんてのは冗談ですが(笑)
書くときに「接吻て書くべきか?」と迷ってしまいました。ちなみに、時代小説では「口を吸う」と表現されることが多いですが、ちょっと…(笑)

アリエルさん
あ、そっちの「時間よとまれ」か。永ちゃんかと思った(笑)
ナオはね~三毛かな?と勝手に(笑)
水玉模様って…遺伝子操作でもされないと(笑)
いや、今回は明るいタッチでいくから!大丈夫よ!多分…。

るんるんさん
そうですね!これは決まりでしょう(笑)←何が?
あとはお決まりのごとく、ダラダラ…いや、今回は簡潔に終わらせるって決めてるので、大丈夫です!!
水玉 |  2009.09.08(Tue) 22:24 |  URL |  【コメント編集】

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 |  2013.05.05(Sun) 20:28 |   |  【コメント編集】

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