日々草子 円舞曲 26

円舞曲 26

その日を境に入江家からは笑いが消えた。
紀子はショックで倒れ寝込み、重樹が付き添っている。裕樹も自分の部屋、琴子は直樹が絵を描いていた部屋に籠ったきりだった。

今の琴子の手には、あのお手製のお守りが握られている。直樹の遭難の知らせがあってからしばらく経った後、届けられたものだった。何でも流されていたものを救助へ出かけた者が拾い上げたらしい。恐らく日本人が持っていたのだろうと、日本大使館に届けられ、そして確認に出向いた重樹の手から琴子へと渡ったものだった。

お守りの中身は、当時琴子が心を込めて筆でしたためた『合格祈願』の半紙が入っているはず。波に漂ったため、薄汚れてしまったお守り袋の中を琴子は、そっと開けた。
中から出てきたものは半紙ではなかった。
「これ…。」
それは琴子が初めて描いた、下手な直樹の顔。昔、直樹と一緒に展覧会へ出展することになった時、練習したものだった。あの時は何度直樹に「下手くそ」と言われたことか。
「どうしてこんなものが…。」
お守り袋の中に入っていたことも驚きだったが、直樹がこの絵を持っていたことに琴子はもっと驚いていた。とっくに処分されたと思っていたから。
「直樹さん、いつの間に入れ替えていたのかな?」
琴子の目からどんどん涙があふれて、その涙は琴子の描いた直樹の顔へと落ちて行く。

「こんなことになるなら…我慢なんてしないで一緒に行けばよかった…。足手まといになっても、邪魔だって言われてもついて行けばよかった…。」
琴子は声を立てずに泣き続けた…。

入江家が悲しみに包まれたまま月日は過ぎ、誰もが部屋に籠っていた時、琴子へ客が訪れた。
女中の知らせに琴子が応接間に行くと、そこには見知らぬ男性が立っていた。その男性は入江家の弁護士とのことだった。
「実は、直樹様がフランスへ出発される前に私の事務所へいらっしゃいました。」
そう言って弁護士は琴子へかなりの厚みのある封筒を差し出した。弁護士に促され、琴子は封筒を開ける。中からは土地と思われる名前が並べられていた。
「こちらは直樹様の名義で所有されていた土地、建物、貯金の全ての目録です。」
そう言われても、琴子にはピンと来ない。
「直樹様はこれらの全てを若奥様の名義に変更され、出発されました。」
「ええ!?」
琴子は驚いて声を上げた。そんなことは直樹は何も言っていなかった。そんな琴子を優しい表情で見つめ、弁護士は説明を始めた。
「自分にもしものことがあった場合、恐らく周囲の人間は若奥様を財産目当てに居残った人間だと言うに違いない。そんな場合に備えて、財産を若奥様の名義にしておけば誰も文句は言えなくなるだろうから…そう直樹様は考えられたのです。」
「そんな…そんな悲しいことを直樹さんが考えていたなんて。」
「そして…もし将来、若奥様がご自分の新しい人生を進まれることになっても、困るものではないから…そう仰っておいででした。」
「新しい人生って…直樹さんのいない人生なんて…。」
琴子はまたもや涙を流し始める。弁護士はそんな琴子に優しい眼差しを送る。

「それからもう一つ。」
弁護士は別の書類を取り出した。
「若奥様は、直樹様の絵が売れ始めていたことを御存じでいらっしゃいましたか?」
それは琴子には初耳だった。素直にそう答えると弁護士はニッコリと笑った。
「少しずつですが、画壇でも注目されていたそうです。直樹様が日本においでの際、何点か買い手がつかれたとか。」
「そうなんですか…。」
それは嬉しいことだった。
「こちらは、直樹様が今までに描かれた絵の目録となっております。」
それは直樹の丁寧な字で、細かく綴られている。琴子が見てもどの絵を指すのかすぐに分かるように書かれていることは一目瞭然だった。
「直樹様は、若奥様に御自分が描かれた絵を管理してほしいとのことでした。」
「私が!?」
そんな大切なこと、とてもじゃないができる自信はない。
「画家は死後にその描いた絵の価値が出ることが多いと仰っておいでした。」
同じことを紀子をかつて口にしていたことを、琴子は思い出した。二人の結婚を紀子が進めようとした時、直樹が画家として生活できるまではと言ったことに対して、有名になるなんて、死ぬまで琴子を待たせる気かと、紀子は直樹を説き伏せたのだった。今となっては遠い昔のことのように思える。

「なので、自分が死ぬようなことがあったら、その後、もしかしたら価値が出るかもしれない。そうなった時、買いたいという方が現れたら、その売買の判断は若奥様に全てお任せしたいと…。」
「でも私、そんな難しいことできません。」
「直樹様は、御自分の絵を誰よりも理解しているのは若奥様だから、必ず素晴らしい買い手に絵を売って下さるだろうと。若奥様の人を見る目を信じていると。」
「そんな…直樹さん、私のことを買いかぶりすぎです。一人でなんてできない…。」
弁護士は琴子の肩に優しく手を置いた。
「勿論、私がお手伝いさせていただきます。ですから若奥様、一緒に直樹様が戻られる日まできちんと管理して、直樹様の絵を守っていきましょう!」
弁護士の言葉に琴子が涙で濡れた顔を上げた。
「戻る日まで…?」
弁護士は力強く頷いた。
「先生…直樹さんが戻ってくるって…そう思っていらっしゃるんですか?」
「勿論ですとも!私は職業柄、色々な御夫婦と会ってまいりましたが、こんなにも奥様を愛された御主人様は見たことがありません。そんな愛する奥様を置いて、直樹様がどこかへ行かれる訳ないでしょう?」
「先生…。」
「ですから、直樹様…御主人様は必ず若奥様の元へお戻りになります!それまで頑張りましょう!」
今後のことなど、分からないことや不安なことはいつでも相談に乗るからと言い残し、弁護士はにこやかに入江家を後にしたのだった。

翌日、またもや琴子へ客が訪れた。今度は入江家の主治医であり、琴子が妊娠したかどうかの時にも世話になった医師だった。
「ああ…やっぱり痩せておいでですね。」
医師は琴子の顔を見るなり言った。なぜ医師が来たのか理由が分からない琴子に、
「直樹様から出発前に申し出がありました。」
と弁護士同様のことを話した。
「もしもの時があった時、きっと若奥様は食事も取らず部屋に籠りきりになるだろう。倒れないよう、若奥様の様子を見に行ってほしいと、直樹様が仰られて。」
自分は至って元気だと主張する琴子に、医師は笑った。
「やはり直樹様が仰っていた通りですね。きっと若奥様はそう答えるだろうと笑っておいででした。」
何もかも直樹にはお見通しだったらしい。琴子はまたも驚く。
「でもその後、元気だと主張された時は絶対空元気だからと。とにかく若奥様のお心の内を私に聞いてほしいと言い残して、フランスへ発たれたんですよ。」
それを聞いた途端、琴子は大粒の涙をこぼし始めた。

「先生…私…直樹さんが弁護士さんや先生にそんなことをお願いしていったなんて…。私、直樹さんにひどいことばかり言ったし、くだらない意地を張って直樹さんにお芋を食べさせなかったり…身分ばっかり気にして優しくできなくて…それなのに、それなのに…。」

そこまで話すと後はもう言葉にならず、琴子は医師に抱きついて声を立てて泣き始めた。医師は黙って優しく琴子の背中を撫でていた。

「とりあえず、少しずつでいいので食事を取りましょう?そうしないと…直樹様が戻られた際、痩せ細った若奥様のお姿を見て驚かれてしまいますよ?」
少し琴子が落ち着いた頃、医師が笑いながら話した。
「先生も…直樹さんが帰ってくると?」
医師は弁護士と同じように、力強く頷いた。
「当然でしょう。こんなに可愛らしい若奥様を遺して直樹様が亡くなるなんてありえませんから。」
しばらくは一週間に一度来るので、その時に何でも話してほしいと医師は笑顔で言い、帰って行った。

もう誰も訪れないだろうと思っていたが、最後の客はそれから一週間後にやってきた。
「入江伯爵様の奥様には大変お世話になっております。」
そう言って頭を下げたのは、紀子が懇意にしている宝石商だった。
「この度、御子息の直樹様からの御注文の品をお届けに上がりました。」
そう言って琴子の前に出されたのは、琴子が見たことのない青い色の宝石がついた指輪。
「こちらは青玉と申す宝石でございます。」
それは見ていると吸い込まれそうな美しい色だった。
「こちらを若奥様にお届けするようにと仰せつかっております。」
「私に…?」
ここ数日の来客に驚かされた琴子だったが、これはまた別の驚きだった。
「奥様に作らせて頂きました金剛石の指輪を、若奥様が大層お気に召したそうでして。」
そういえば、紀子から借りた金剛石の指輪に浮かれたことがあったことを琴子は思い出した。あの時、直樹に綺麗だ、綺麗だと何度もはしゃぎながら口にした。二人で貫一とお宮の真似をしたこと…そんな日々はもう戻って来ない。

「そこで直樹様が若奥様にもと御来店されまして。直樹様の描かれた絵が初めて売れた時のことでございます。」
またもや琴子の知らない直樹の姿が話される。
「初めて売れた絵の代金は、若奥様への贈り物を買うと決めておいでだったそうです。ですが金剛石にはとても手が届かない金額なのでと、こちらの青玉を選ばれました。」
「そんな大事な、記念のお金…自分のために使えばよかったのに。直樹さんったら…。」
琴子は青玉の指輪に目を落とした。琴子の目にはあの金剛石よりも、どんな宝石よりも素晴らしく、美しく輝いて見える。

「勝手ながら…このお品は当方でお預かりさせていただいてよろしいでしょうか?」
宝石商の申し出に琴子は不思議な顔をする。そんな琴子を見ながら、宝石商は恥ずかしそうに話す。
「実は…直樹様の素晴らしさに当店の女性店員どもが溜息をついてしまいまして。こんな素晴らしい方が宝石を贈られる奥様のお顔が見てみたいと。私も恥ずかしながら同じ気持ちでして。」
「…?」
そして宝石商は笑って言った。
「ですので、ぜひ直樹様が戻られたら、お二人でお越しいただき、私共の前で直樹様から若奥様へこのお品を贈るお姿を見せていただきたいのです。」
琴子は、宝石商が遠回しに直樹が生きていると信じていると言っているのだということに気がついた。そしてその優しさに甘えることにし、指輪を預けておくことにした。

「直樹さん…こんなにたくさんの人が、直樹さんは生きているって言ってくれたよ?」
琴子はお守りに語りかけた。
「ひどいことばかりした私にこんなに沢山の贈り物をしてくれたなんて…。私は何も直樹さんにしてあげられなかったのに。」
琴子はふと気が付き、箪笥からある物を出した。
「私も直樹さんは生きていると信じている。だから、戻ってくるまでは泣かずに待ってるから。」
そしてそれを衣桁にかける。それは琴子が初めて縫った直樹の着物だった。
「必ず帰ってくるって約束したものね。」
琴子は愛おしそうに、その着物を優しく撫でて微笑んだ。





♪あとがき
前回に続き、セリフ(しかも長い)ばかりでごめんなさい。
この回が一番、『円舞曲』で書きたかった所なんです。
なかなか頭で描いたとおりに文字にはならなかった…。
色々突っ込みたいこともおありかと思いますが、全部終わったら私が代わりに突っ込みますね(笑)
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comment

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NO TITLE

何よりも水玉さんの優しさがとてもよく伝わっています。
直樹の気持ちも、周りの皆様の気持ちも琴子ちゃんも
とてもあたたかく、素晴しいですが、
水玉さんが何よりも素敵な方なんだなぁ~
と、改めて思いました。
本当にいつも温かくなるお話有難うございます。
さあ!続きが楽しみです♪どうなるのでしょうか?

涙が・・・

なんて悲しくてなんて美しいストーリーでしょう。直樹さん、何年かかってもいいから琴子ちゃんのもとへ生きて帰ってあげて!ビエ~ッ(涙)

NO TITLE

入江君の乗った船が沈没だなんて....

入江君、フランスに旅立つ前に、もしもに備えて色々用意していたのですね。
今更ながら、入江君の琴子に対する愛情の深さを感じます。
これからどうなっちゃうの?

入江君、絶対帰って来てね!

帰ってぇこいよ~

き~ぃっとぉかえ~てぇく~るん~だぁとぉ~♪
約束したわよね?直樹さん!!

一つ一つのエピソードに、直樹さんの溢れんばかりの琴子への愛を感じて、読みながら胸が詰まる思い!
けど、そんな準備万端にするから事故に遭うのよ!直樹さん!!
きっと無事に帰ってきて、琴子の指にその手で青石の指輪をはめてあげてね!直樹さん!!

それにしても、絵が売れ始めていたなんて…すごいわぁ!直樹さん!!

「絶対ハッピーになるんだろ?」「うんっっ!!」(by 最強のキス)

琴子諦めないでよ。

水玉さん、こんばんは。

もう涙が止まりません。
入江君は琴子の為に色々な事を手続きして行ってるんですね。
琴子の身体のことまで心配しているんですね。
皆さん、入江君がが生きていると話されていますね。
琴子、入江君は貴方の許に必ず帰ってくるよね。
だから琴子、諦め無いで待っていようね。
入江君、早く琴子を安心させて挙げてよ。
早く琴子のお芋を食べてあげてよ。
絶対に帰ってきてよ。

NO TITLE

25話を読んで、えー!と朝一叫んでしまいました。

コメを書こうとここに来てびっくり!26話がアップしてあってうれしいです。

そうきっと直樹は帰って来る?帰ってきますよね!

あんなに琴子の事を愛してるんですもん絶対にですよね!

直樹さんたら

まったく用意周到すぎますよ(泣)
でもでも、海外へ出るにはそれくらいの覚悟がいった時代なんでしょうね
神様、仏様、水玉様・・・・どうか琴子のところへ直樹さんを帰してくださいませ。

コメントありがとうございます

コメントありがとうございます♪

ゆみのすけさん
ええ!こんな私をそんな風に言って下さるのは、ゆみのすけさんくらいです!ありがとうございます!
これからもゆみのすけさんの期待を裏切らないよう、真っ白い心を持ち続け…(笑)
冗談はともかく、この回の話はゆみのすけさんが仰って下さったように、優しさに溢れた話にしたかったんです^^
優しい話を書くと、自分の心も穏やかになる気がします。だからやっぱりこういう話は書いていてとても楽しいですし、好きです♪
ありがとうございます!

Roseさん
ありがとうございます!十分すぎるおほめの言葉、嬉しいです!
本当に戻ってきてほしいですよね…。
このままじゃ、あまりにも琴子ちゃん、可哀想すぎる…。

るんるんさん
絶対直樹さんは、全て準備して出発する感じがしたので。
というか、琴子への愛情の深さを書いてみたかったんですよね。
それが伝わってよかったです。安心しました♪

アリエルさん
本当…こんな準備、縁起でもないよね(笑)
でもこの時代はこれくらいの覚悟が必要だった気がする…。
まあ、いろいろ突っ込みたいところは本当、あるだろうけど、最後まで我慢することにする(笑)

tiemさん
本当に琴子のお芋を早く食べに戻ってきてほしいですよね。
琴子は絶対あきらめないで待っているんでしょうね。
何せ明治の女ですから!←意味不明(笑)

kobutaさん
そうなんです~私っていつもこうで、乗ってくるとどんどんUPするという…汗
それまでダラダラやっているくせに。
もう少し続きますので、お付き合い下さると嬉しいです♪

さくやさん
神様、仏様、稲尾様…というフレーズを思い出してしまいました(笑)
わ!神様、仏様と一緒に並べられてるよ、私(笑)
用意周到すぎる…確かに。海外って誰でも行けるような時代でもないですものね。
プロフィール

水玉

Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
そっと見守っていただけたら嬉しいです。

※当ブログに掲載されている文章及びイラストの無断転載・使用はご遠慮下さい。

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このブログについてのお願い
当ブログは、『イタズラなkiss』の二次創作をメインとしておりますが、時折管理人の趣味や日々の出来事についての記事も書いております。

原作者様や関係各位とは一切関係ありません。

二次創作については、いわゆる原作の隙間をぬった作品もありますが、主人公以外のキャラクターをメインとしたものや オリジナルキャラクターが出てくるものもございます。

そして、原作と違った時代(平安や明治やその他の時代を舞台にしております)、異なる設定(主人公を医者と看護師じゃない職業にしております)で書いてあるものが多いですが、原作を冒涜しているつもりは全くございません。

二次創作が苦手という方及び原作のイメージと合わないと思われる方はどうぞお引き取り下さいますようお願いいたします。

コメント及びメールなどでの苦情及び批判は公開、非公開を問わず、私へ告げることはご遠慮いただけますよう、お願い申し上げます。

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