日々草子 水面に映る蓮の花 11
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水面に映る蓮の花 11







鴎殿では、欅宮が機嫌良く過ごしていた。
「東宮とあの娘の仲は冷え切ったということか。」
報告を受けた欅宮は「あっけないものだ」と呆れていた。
「しかも東宮様が東宮妃様の育ちを馬鹿にした発言をされたということです。」
「ほう…。」
これには少し欅宮は意外であった。
「何だ、東宮はその程度の愛情であったか。」
これは予想外に簡単に事が運びそうだと思った。
「それはあの娘は落ち込んでいることだろう。」
「雀殿に籠もりがちとか。王妃様もどうしていいか分からずお困りとのこと。」
「所詮、身分の違いというものよ。それを自覚してきただけましか。」
そして欅宮はお付きの柘榴に命じた。
「柘榴、雀殿へ出向く。支度をせよ。」
「え?宮様、それは?」
欅宮が自ら東宮妃の御殿へ出向くなどと、柘榴は驚いた。
「少しは私も優しさを見せてやろうと思ってな。」
優しさという言葉とは裏腹に、欅宮は残酷な笑みを浮かべた。



「欅宮様、わざわざのお越しとは…。」
取り次ぎを受けて、琴子が慌てて外へ出て来た。
「いかがなさいましたか?」
「宮中で生まれ育った私が、まだ慣れぬそなたに教えたいことがあってな。」
「教えたい」という言葉に、琴子の後ろに控えていた桔梗が表情を強張らせた。何を教えるつもりなのだろうか。
「これ、桔梗。そのように怖い顔をするでない。」
欅宮が桔梗に意地悪く笑いかけた。
「長くここで暮らした私ゆえ教えられることもあるだろう。それとも、気が進まぬか?」
「とんでもございません、宮様。」
琴子が慌てて言った。
「ありがたき仰せでございます。ぜひともご教示くださいませ。」
「そうか。ならば付いてまいれ。」
欅宮はスッと歩いて行く。琴子は桔梗に安心させるよう頷くと、後を付いていった。

宮中は広い。暮らしている御殿の周囲しかまだ琴子は知らないことを、欅宮に付いていくうちに気づかされた。
「物珍しいか?」
欅宮が声をかける。
「はい。この辺りは歩いたことがありません。」
「そうであろう。我ら王族は宮中の一部分しか行き来しないからな。」
女官たちの暮らす建物、その下働きの者たちの暮らす建物を横目に歩いて行く。こんなに大勢の者たちに囲まれて自分たちは暮らしている、支えられているのだということを欅宮は教えたかったのだろうかと琴子は思ったが、欅宮が足を止めることはなかった。

どれほど歩いただろうか。欅宮が足をようやく止めた。
「こちらは…?」
鉄の古い門がそこにあった。蔦のからまった見た目から、長年開閉されていないことは明らかだった。そして門の向こうを人目から隠すかのように高い塀がぐるりと囲んでいた。
「ここからは私と東宮妃が二人で行く。」
「え?」
思わず桔梗が声を上げた。
「心配するなと申しただろう。取って食おうとするわけではない。東宮妃はきちんとこの場所へ連れて帰って来る。」
「桔梗、そこへ控えていなさい。」
琴子が桔梗にそれ以上口を挟むなというように言った。
「これ。」
欅宮が顔を動かすと、女官の一人が鍵を錠口に差し込んだ。見た目によらずあっさり門は開いた。
「…時折、点検に来ているようだな。」
欅宮は一人呟くと、門の中へ足を踏み入れた。琴子も後に続いた。二人が中へ入ると、まるでそこにいる者、特に桔梗に見せないようにすぐに門が閉じられた。


中は朽ち果てた建物が並んでいた。いずれも戸は外れ、窓は破れている。
「ここに入るか。」
欅宮は怖くないのだろうか。外れた戸の中に入った。
かつては靴を脱いで上がる場所だったろうに、今は土足で入る。
「こちらはどういった建物でございますか。」
建物の中も散らかっていた。琴子の足元を、色の変わった書き付けが転がって行く。
「ここは冷宮と呼ばれた場所だ。」
「れいぐう、でございますか。」
「宮」とついた場所とは思えない所だった。
「そうだ。冷たい宮と書いて冷宮。耳を澄ませてみよ。」
欅宮が琴子を振り返った。
「聞こえぬか?ここでかつて暮らした者たちが泣き叫ぶ声が。」
「泣き叫ぶ…声?」
琴子はゴクリと唾を飲み込んだ。
「ここはその昔、後宮で暮らしながら王の寵愛を失った女人、王や王妃、皇太后の怒りをかった女人、罪を犯した女人が送りこまれた場所だ。ここに送りこまれたらもう二度と、あの高い塀の向こうに出ることは叶わない場所だ。」
「そんな…。」
「信じられぬか?ならば足元を見てみよ。」
琴子は足元を見た。歯のかけた櫛が落ちていた。
「その櫛もかつては栄華を誇ったいずれかの女人の持ち物であったのだろうな。何らかの事情でここへ入れられ、来る日も来る日も良き思い出を抱きつつその櫛で髪をとかして過ごしていたのだろう。」
欅宮の言葉を聞いて琴子は背筋がゾクッと震えた。話を聞いているだけで、そこにまだ誰かいるのではという気がする。
「隔離された女人達はどんなに泣き叫んでも望みを聞き入られることはない。絶望と共に気がふれる者すら大勢いたと聞いている。」
琴子の顔が青ざめていく。想像しただけで辛い。それを欅宮は鼻で笑った。

「こちらは…まだ使われているということでしょうか。」
絞り出すように琴子は口を開いた。
「私の父の代でも使ってはいなかった。もう何代も前から使われてはいないようだ。今の王も使うことはないだろう。だが。」
欅宮は琴子を見据えた。
「使われてはいないが、壊されてもいない。ということは理由が生じたら再び使われるということだ。誰が入れられるかは分からぬが。」
欅宮は建物から出た。琴子も続いた。外に出ただけで気分が変わった。

「寵愛されることをいいことにしたい放題していると、ここに入ることになるかもしれぬ。それを教えたかっただけよ。」
「私はそのようなことは…。」
寵愛どころか、直樹からは見離されつつあるというのに。が、それでここに入れられることもあるのだろうか。
「そなた…宮中の大事な掟というものは存じておるか?」
欅宮はそう言うと、琴子に顔を近づけた。
「まだ不勉強ゆえ…。」
「そうであろうな。だから、あのように夜ごと東宮の元へ平気な顔で渡っていくのであろう。」
「そんな!」
琴子は顔を赤らめた。
「そのようなことは…。」
「誤魔化しても無駄だ。そなたが東宮の求めに応じて、多いときは連日連夜渡っていることは私の耳にも入っている。」
少し前はそうであったかもしれないが、今は違う。が、琴子はそのようなことは言えなかった。
「宮中では、正妃であろうと側室であろうと王や東宮の元へ渡る夜は係の者が決めることになっているのだ。それを知らないのか?」
「それは…。」
知っているが、直樹はそのようなことはもうこだわらないと主張していた。「夫婦が会いたい時に会わないでどうする」というのが直樹の言葉だった。
「さかりのついた猫のごとく、東宮の元へ押しかけていたのか?」
琴子は顔を赤くして俯くことしかできなかった。
「前の東宮妃はそのようなはしたない真似はしなかった。きちんと掟に従い、行動をしていた。慎み深い性格であったからな。それが貴婦人というものだ。」
ここで突然琴子の脳裏に、かつて見た前の東宮妃が直樹の元へ渡る姿が浮かんだ。しずしずと、気品高く歩いていたあの姿は自分にはないものだった。
「そうすることで、素晴らしきお子もできるというものだ。そうできるのが正妃の条件。もしかしたら、将来は皇太后になり子である王の補佐を務める可能性とてあるのだから。もっとも…。」
欅宮はニヤリと笑った。
「既に寵愛を失ったそなたには関係のない話か。」
やはり欅宮はそこまで知っていたのだ。琴子は涙をこぼさぬよう唇をかみしめた。
「どのような手を使って東宮の心を手に入れたかは知らぬ。育ちのよい東宮がちょっと珍しい手に乱されただけだろう。が、所詮その程度のものだっただけよ。」
ホホホと欅宮は笑い、冷宮の出口へと向かったのだった。



琴子が欅宮と中へ入っている間、桔梗も柘榴からこの場所がどのようなところであるかを聞かされていた。恐らく、欅宮から説明するようにと柘榴が命じられたのだろう。
「まことに親切なお方だと思わぬか、桔梗殿。」
「…左様でございますね。」
ただの嫌がらせではないかと思ったが、言い返して琴子に被害が及んでも仕方がない。
「もっとも、東宮妃様がこちらへ入るようなことはないでしょうが。」
「どうであろうな。人の心など移ろいやすいもの。東宮様とて今は目を覚まされておられるかもしれぬではないか。前の東宮妃様の素晴らしさを懐かしんでおられるかもしれぬ。」
何と、この後に及んで前の東宮妃が元の座に復活する可能性を柘榴は示唆してきている。
「それは…。」
と言い返しそうなところで、
「門を開けよ。」
という欅宮の声が聞こえた。慌てて女官が門を開いた。

「私はここで失礼する。では、またいずれ。」
欅宮は目的を果たしたかのような顔で自分の御殿へと戻って行った。琴子は頭を下げそれを見送った。

「姫様、大丈夫でございますか。」
琴子の顔は真っ青であった。よほどの場所だったのだろう。大丈夫だろうかと桔梗は心配になる。
「雀殿へ戻られたら、お医師を呼びましょう。」
何か薬湯を飲んだ方がいいという桔梗の申し出を、琴子は断った。
「少し…散歩してから戻るわ。」
「左様でございますか。」
この辺りは琴子が普段歩いている場所であった。
「そなた達は先に戻っていていいわ。」
琴子は一人になりたかった。
「ですが、今の姫様をお一人にはできませぬ。顔色が尋常ではございませぬゆえ。」
「大丈夫、病気ではないわ。少し歩けば気分が良くなるから。」
「では女官たちは先に戻らせます。私はここで控えております。」
「…分かったわ。」
これ以上言っても桔梗は動かないだろう。琴子は一人で歩き始めた。


「…ここはどこなのかしら?」
裕樹の絵の師の娘である好美は、泣きそうになりながら宮中を彷徨っていた。裕樹の見たがっていた画集を届けに来たのだが、あいにく裕樹は学問の最中ということで侍従にことづけて自分は帰ろうとしていた。
が、いつもは女官に門まで送ってもらっていたゆえ一人では歩いたことのない宮中。好美は迷っていた。
「すみません、出口はどこでしょうか。」
「出口?いずこの門でしょうか。」
人に聞いてもそう聞き返される。どこの門から自分は帰ればいいのか。それすら分からない。
「困った…。」



琴子は深呼吸をしようとした。が、思うように呼吸はできなかった。
冷宮は恐ろしい場所だった。あのような場所があるとは。が、その恐ろしさに気分を悪くしたわけではなかった。
自分がまるで、直樹の体を虜にしている女のような、そういうはしたない女と見られていたことが辛かった。
「でも、本当にそうだったとしたら…。」
もちろん、虜にするなどそういうことができる自分じゃないことは良く分かっている。が、前の東宮妃の気品高き振る舞いに慣れた直樹が…ちょっと育ちの違う自分に目を向けただけだとしたら…。
「何て、はしたないことを!」
琴子は顔を赤くした。そう考えることは自分と直樹の夜の過ごし方、そして前の東宮妃と直樹の夜の過ごし方を想像することになってしまう。
このような想像をするからこそ、あのように欅宮に思われてしまうのだと反省していた時であった。

「あれは?」
うろうろしている少女に琴子は気づいた。
女官の服装ではない。それに女官になるには少々早い年齢である。ならば見習いであろうか。
「まるで私のようだわ。」
自分もいまだ、宮中では迷うことがある。琴子は他人事とは思えなかった。

「どうされましたか?」
未だ、このような丁寧な言葉遣いをしてしまう琴子であった。
「あ…。」
少女―好美は突然現れた琴子に、驚いた。一体誰だろうか。さっと好美は観察した。髪飾りも衣裳も一目で上等と分かるものだった。もしかしたら、いずこの姫宮か、自分とは全然違う身分高き貴族の奥方だろうか。
「あの…。」
どういう振る舞いをしていいか、好美は分からなかった。そんな好美に琴子は身を屈めた。
「大丈夫ですよ。さ、ゆっくりとお話して。」
「あの…道に…迷ってしまって…。」
「宮中は広いですから。」
琴子はやはりそうだったかと笑った。そして好美の頭を撫でた。
「どちらへ行こうとされているのですか?」
「あの…それが…分からなくて。」
「え?」
「家へ戻りたいのですが、どの門から出ればいいのか分からないのです…。」
そう言うと、今まで道を尋ねた者は皆、それでは話にならないと笑うばかりであった。そして忙しいから違う人に尋ねるようにと言い残して去ってしまった。
「そうですか。」
が、琴子は去らなかった。
「では、一緒に探しましょうか。」
そう言って、琴子は好美の手を取った。
「不安でいっぱいだったのでしょう。ここまでよく頑張りましたね。」
ニコッと笑いかける琴子に、好美はとうとう我慢していた涙を溢れさせた。


「姫様、お戻りにならなくて心配しました。」
何度も同じ場所を行ったり来たりしていた桔梗が、琴子の姿を見つけた。が、一緒にいる少女に不思議そうな顔をした。
「そちらは?」
「道に迷ったそうよ。桔梗、一度私の部屋で休ませてあげたいのだけれど。」
「桔梗?」
好美がその名前に顔を上げた。
「え?私をご存知で?」
「あ、いえ。」
好美はかぶりを振った。桔梗という名前は裕樹の話の中によく出てくる。たしか、餅菓子の名人だと。

「お帰りあそばせ、東宮妃様。」
好美が手を引かれ連れて来られたのは、御殿だった。そしてそこの女官達が、好美の手を引く琴子を東宮妃と呼んでいる。
「あ、あの…。」
「ああ。大丈夫ですよ。ちゃんと送ってさしあげますから。でも歩き回って疲れたでしょう。お茶を飲んで休憩しましょう。」
東宮妃と呼ばれた琴子は、女官に好美の席を作るよう命じた。
「そういえば、まだお名前を聞いてませんでしたね。私は琴子といいます。」
「琴子…様!」
その名前は裕樹から何度も聞かされた。事あるごとに琴子、琴子と裕樹は口にしている。
「し、失礼いたしました!ご無礼を!!」
好美は床につかんばかりに頭を下げた。
「まあそんなことしなくても。」
琴子が自ら、好美の体を起こした。
「さあ、あなたのお名前は?」
「私は…好美と申します。あの…佐川好美でございます。」
「佐川…もしや、裕樹様の絵の師の君様の姫君では?」
「は、はい。」
「まあ、そうでしたか!」
琴子は朗らかに笑った。
「裕樹様よりお話を聞いていますよ。そうそう、お父上には私も一度、お会いしたことがあるのです。」
その時の話を、琴子は好美に語って聞かせた。好美はただ驚くばかりであった。

「さあ、召し上がれ。」
やがて桔梗が自ら、餅菓子を運んで来た。これが裕樹の好物の餅菓子かと好美はまじまじと見つめる。
「餅菓子はお嫌いですか?」
琴子が心配すると、「いいえ」と好美はぶんぶんと頭を振った。
「あの…二ノ宮様よりお話を伺っておりました。桔梗様の餅菓子がとても美味しいと。」
「ああ、そうなのですよ。裕樹様はとてもお好きで。」
実は好美は、裕樹から桔梗の名前が出る度に、もしかしたら裕樹の想い人なのではと思っていたのだった。自分と同じくらいの年齢で裕樹の好物を作る名人。そうだとしたら自分はかなわないだろうと。
が、違った。桔梗は東宮女官長という責任ある立場であった。そんな勘違いをした自分を好美は恥じた。

「東宮妃様、ただいま二ノ宮様が…。」
「琴子、画集を見せてやるぞ!!」
全ての言葉を取り次ぎが口にしないうち、裕樹が好美から届いたばかりの画集を手に部屋の中へやって来た。
「あ、何で好美がここにいるのだ?」
餅菓子を食べる好美を見て驚く裕樹。そんな様子を目にしているうちに、先ほどの気分の悪さは琴子の中から消え去っていたのだった。





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