日々草子 別冊ペンペン草 32

別冊ペンペン草 32





入江直樹はこの日、都内の書店の少女漫画コーナーにいた。自分の著作は相変わらず売れているようである。が、その著者の顔はなぜか浮かないものであった。
「…何かつまらねえな。」
『それいけ!ナオキン』の最新刊を手に取り、直樹は溜息をついた。評判もいい、最近はアニメ化の話まで出て来ているというのにどうも気分が乗らないのである。
「そろそろ潮時か?」
求められている時に引っ込むのが華と思わないでもない。スランプというわけでもないのだが、どうも調子が今一つだと自分で思う。
「そもそも、読んでいる人間の顔が見えないってのがあるんだよ。」
ファンレターは届くし声は聞こえている。が、読んでいる人間の表情が見たいと思うのは贅沢なのか。そのようなことを考えていた時、直樹の体に何かが当たった。

「あ、すみません!」
当たったのは女性であった。俯いていたので直樹が立っていることに気付かなかったらしい。直樹は何も答えず、少し横にずれた。
女性はすぐにまた俯き何かを始める。見ると平台の『それいけ!ナオキン』をせっせと並べているではないか。書店員ではなさそうだし、一体何者だろうと直樹は背中に長い髪を垂らしたその女性を眺めていた。
「ええと、1巻でしょ?2巻、3巻…あれれ?7巻がないぞ?」
キョロキョロと平台と棚を見比べる女性。そしてまた「1、2…」と数え始める。
「やっぱりない!やだ、7巻欠品?もう、あそこはパリのエッフェル塔でナオキンが雄叫びを上げる名シーンなのに!在庫がないってありえないじゃないの!」
女性の言葉に直樹は目を丸くした。確かにその通りなのであるが、よくもまあ覚えているものだと感心する。
「ええと、7巻を注文…」と文句を言いかけた女性に思わず直樹は「ちょっと」と声をかけた。
「はい?」
「そこ。」
「は?」
「そこ。18巻の下。」
「18巻の下?」
一体何を言っているんだと直樹の顔を見ながら、女性は言われた通り18巻を持ち上げた。その下には7巻が置かれていた。
「あら!何でこんなところに?」
「いや、あなたが間違えたのではないかと。6と8の間は普通7ですよね?」
女性は6巻と8巻を確認した。
「…確かにそうですね。」
在庫があるのに注文して困るのは書店側であろう。何者か知らないが自分の作品に関わることでもあるので直樹はつい話しかけてしまった。

「それでは…」と言って手にしていた最新刊を戻そうとした直樹の腕を「ちょっと待って!」と女性が掴んだ。
「ちゃんと最新刊のところへ戻しますが?」
「あなたもナオキンのファンですか?」
「…は?」
眉を寄せ迷惑だという顔をはっきりと作った直樹であるが、その顔が目に入っていないかのように女性は笑っていた。
「ですよね?ね?」
「…いや、別に。」
「いえいえ、男性ファンだってこの作品は多いのです。隠す必要はありません。」
「そういうわけじゃなくて。」
「いいですよね~ナオキン!あ、最新刊はの見どころはナオキンがオーストラリアでカンガルーにアドバイスするところ。すごく面白いですよ!」
確かにその通りなのだが、一体この女性は何者なのか。熱心なファンなのか。あまり関わらない方がいいと直樹は腕をふりほどこうとするがぶら下がって離れない。
「ファンでしたら、こちらの本もお勧めですよ!」
と、女性が出して来たのは『それいけ!ナオキン検定』であった。いわゆるファンブックというもの。
「私、学生時代は勉強苦手でいつも補講ばかりで!そんな私もこれは満点取れちゃったんです!」
「…そんなバカに読まれてるのか。」
「はい?」
「いえ、それはおめでとうございます。じゃあ。」
ファンの顔が見たいと思っていた自分を直樹は今すぐ殴りつけたくなった。こんなバカに読まれているなんて知りたくもなかった。
「あなたも解いてみましょうよ!」
しかし女性は直樹から離れなかった。
「いいですよ。」
「遠慮せずに!」
女性は見本のファンブックを広げ「まず第一問!」と読み上げ始めた…。



「すごい、超難問クラスまで正解…。」二十分後、女性は直樹に心から感心していた。が、直樹はさして驚きもしていない。正解するのは当たり前である。自分が描いているのだから。「あなた、すりこぎ入りのナオキンファンですね!」
「筋金ですよね?」
訂正しながら、本当にこんなバカなファンの存在は知りたくなかったと直樹は思う。
「すごいなあ、やっぱりナオキンはすごい!!」女性は並んだ単行本を一冊ずつ撫でる。「いいファンに買ってもらえますように。読んだ人が心から笑って明るい気分になりますように。」
その仕草が直樹の心に深く残った。何だろう、この気持ちは一体…。
「こんな素敵な作品を描く入江直樹先生ってどういう方なのでしょうね?」
女性が直樹を仰いだ時である。
「おい!」
スーツ姿の男性が怖い顔をして現れた。それを見て「あちゃ」と女性が声を出したのを直樹はしかと聞いた。
「君は営業じゃないだろう!何してるんだよ!」
「それはそうですけど…。」
「まったく、編集が余計なことしないでくれよな。」
「だってせっかく憧れの別ぺの編集部に配属されたから、書店ものぞきたくて。」
「会社へ戻れよ、ほら」と男性が女性を引っ張っていくのを、直樹はポカンと見ていた。そして我に返って呟いた。
「…別ぺの…編集?」



数日後、直樹は『それいけ!ナオキン』の掲載誌である『別冊ペンペン草』の編集長から電話を受けていた。
「…とういわけで、入江先生には本当に申し訳ないのですが。」
今まで特例で直樹の担当を務めてくれていた編集長が、自分の業務に専念する必要に迫られたため担当を変わらねばならないという連絡であった。
「とんでもありません。こちらこそ、今まで我がままを沢山言ってすみませんでした。」
「いやいや」と編集長は言った。「これからの担当についてですが、入江先生の秘密を厳守する信頼できる人物をつけますから。」
直樹は編集長以外には自分の姿を見せていなかった。性別と名前だけは編集部に知られているがそれ以外は年齢すら伝えていない。それが直樹の希望なのである。
「松本という女性がいまして、彼女なら有能なので入江先生の力になれると思います。」
「女性…」と呟いたところで、ふと直樹の脳裏にあの書店で会った髪の長い女性が思い出された。
「女性といえば、そちらに相原という編集はいますか?」
「相原?」突然直樹の口から出た思いがけない名前に編集長は驚いた。そのまま視線を動かす。
「相原さん、またそんな物を集めて!」
「だってこれ、珍しいから。」
「そんなものが当たって喜ぶ読者はいないでしょう?」
編集長が推薦する松本と、その同期である相原琴子がギャーギャー言い合っている。相原琴子の手にはどこから調達してきたのか謎な怪しいお面があった。
「…いますが?」
「彼女に担当をお願いできないでしょうか?」
「ええ!?」
冷静な編集長から思わぬ声が飛び出し、編集部は静まり返った。皆が編集長に何かあったのかと息をのんで見つめている。
「し、失礼しました。」編集長は部下たちに何もないというサインを送りながら気持ちを落ち着かせた。
「本当に…相原ですか?」
「はい。」
編集長はまた相原琴子を見た。「はあっ」と息を吹きかけて怪しいお面を磨いている。別冊ペンペン草、略して別ぺの編集部には相原は彼女しかいない。一体直樹はどこで彼女を知ったのだろうか。
「あの、相原さんはもう複数の担当で手一杯ですか?」
「いえ、担当など一人もいませんよ。」
編集長の視線の先では、琴子は次に奇妙な色の皿を磨き始めていた。相原琴子の仕事は読者プレゼントの景品集めである。

「相原くん、ちょっといいか?」
お面、壺、皿と怪しいものを机に並べていた琴子の肩を編集長は叩いた。
「あ、編集長。今度のプレゼントはなかなかいけると思いませんか?」
「うん、それはちょっと置いておいて」と編集長は社員の息抜きの場所となっているスペースへ琴子を連れて行った。突然呼ばれて琴子は一体何だろうかと緊張している。
「君にその…担当をしてもらおうかと思ってね。」
「担当…作家さんのですか?」
「ああ。」
「本当ですか!」
琴子の顔が輝いた。編集部員となったからにはいつか作家の担当になるのが夢だった。とうとうその夢がかなえられる時が来たのである。
「担当…」上司が目の前にいるというのに、琴子の気持ちはどんどん飛んで行く。

「うん、今月はよく描けてますね!」
「相原さんのおかげです。色々アドバイス下さって。」
「そんな、私なんて。」
「私、相原さんが担当で本当によかった!」

「ウフフ」と笑っていると、編集長が「コホン」と咳払いをした。「話を続けていいかな?」
「すみません!」
琴子は慌てて現実へ戻ってきた。
「さて、担当なんだけど。」
「はい。」
多分新人作家だろう。ああ、何歳くらいだろうか。可愛い女の子で妹のような感じだろう。琴子の胸は膨らんで行く。

「入江先生だ。」
「はい、入江先生ですね!入江先生…ええっ!!」
琴子は立ち上がった。
「い、入江ってあの、ナオキンの先生ですか!」
「他に入江という先生はいないけど。」
「いえ、だって。入江先生ってうちの、別ぺの人気ナンバー1の先生ですよね?」
「そう。」
「だ、だって…そんなすごい先生の担当を私がやっていいのですか?」
「まあ、手が空いているのは君しかいないし。」
本当は入江直樹本人の希望なのだが、それは絶対言ってくれるなと口止めされている。
「頼んだよ。」
編集長は不安を隠しながら琴子に何とか笑顔を作ったのだった。



「ええと…塩分は控え目に。怒らせると血圧が上がると。」
初めて入江直樹の元へ挨拶へ向かう日、電車の中で琴子が懸命に読んでいるのは「高血圧の食事」という本だった。
年齢不明の入江直樹は、その作品から実年齢は五十から下手したら七十代ではないかというのが別ぺ編集部のもっぱらの噂であった。
「あなた、これを読んでおいた方がいいわよ。」
そんな入江直樹の機嫌を損ねぬようにと、優秀な同期の松本から渡されたのがこの本ともう一冊。
「『ヘルパー入門』?」
「そう。高齢者相手ですからね。ちゃんと読んでおくのよ。まあ、この本他にも役に立つかもだけど。」
「他にも?」
「あなたが入江先生の機嫌を損ね会社をクビになった時、次の職を探すのにね。」
「何てこと!」

そんなこと絶対ない。入江直樹のために自分は何でもするのだと琴子はやる気にあふれていた。が、一応そういう本も読んでおこうとこうして目を通している。
「ええと…耳が遠い方には低めの声で話しかけましょう、か。なるほど。」
そこまで読みふけっていると、入江直樹の家の最寄り駅に電車は到着した。






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