日々草子 永遠に君を愛す 46

永遠に君を愛す 46






今日も病院は大混雑だった。
「ここでずっと俺に付いているのも退屈だろう?」混雑の中、何とか待合室に席を見つけた新川は琴子に笑った。「病院の中、散歩しておいで。」
「病院の中を散歩だなんて。」
思わず琴子はクスッと笑った。それに呼ばれた時に手伝わねばと思っていると、
「大丈夫だよ、診察室はすぐそこだし。」
新川は顎で扉を示した。
「それに何かあれば看護婦さんに頼むから。」
夫の思いやりを琴子は受け取り、少し院内を歩いてみることにした。

最初に来た時も思ったが、結構大きな病院である。琴子の視線はやがて忙しく働く看護婦たちに注がれた。
何もなければ自分もああして白衣を着て看護婦として働いていたかもしれない。あれだけ猛勉強して看護学校へ入り、資格を取ったことが今となっては夢のようだった。
新川は大阪にいた時から、せっかくの資格を生かして働いてみたらと勧めてくれた。本当に優しい人だと思う。しかし自分は不器用だし家庭と仕事の両立に自信が持てないということで琴子は家庭を切り盛りすることに専念してきた。
それに…こんな大きな病院だからか、京城での暮らしが蘇る。京城で実習していた京城帝大病院も大きかった。そしてそこを思い出すと…いけない。これ以上思い出しては封印した気持ちが溢れそうだと琴子はそこで現実に戻った。
やはり夫の傍についていよう。そう決めて来た道を戻ろうとした時だった。

「入江先生。」

―― え?

思わず聞こえた名前に琴子の体が震えた。聞き間違いだろうか。いや、たとえ聞き間違いじゃなかったとしても同じ名前の人間だっている。琴子は震えながらゆっくりと振り返った。

―― まるで金縛りに遭ったかのように、琴子の体は固まってしまった。息も出来ていないのではというくらい胸が苦しい。そこにいたのは、今思い出してはいけないと封印したその人だった。

「入江先生、312号室の杉山さんですが。」
看護婦がカルテをその人、入江直樹に見せている。直樹は注意深くカルテを見ていた。琴子は固まった体を何とか動かし、直樹から見えない位置に移動した。しかし視線は直樹から動かすことができなかった。
間違いない、直樹がそこにいる。しかも医者として。ああ、白衣が何と似合うことか。再び琴子の中に京城での日々が蘇る。看護学校時代も、こうして密かに実習中の直樹を見ていたことがあった。まるで時間が戻ったかのようである。

話が終わったのか看護婦が去って行った。そして直樹が歩き出す。しかも琴子のいる方へ。琴子は慌てた。今ここで再会したら自分は何をするか分からない。ここから立ち去らねばと適当な方向へと走った。

病院を走るなんて看護婦免許を持つ者として失格だと思いながら、琴子は気付いたら外に出ていた。どこをどう走ったのか、植え込みに花が見える所からすると中庭だろうか。
ベンチを見つけ、琴子は腰を下ろした。
「直樹坊ちゃん…。」
自分でも馬鹿だと思った。あそこで直樹と対面しても直樹は自分を忘れているのに。だから直樹は何も気づかないのに逃げるなんて。
「馬鹿だなあ、私って。」
笑いながら、琴子は目に浮かんだ涙を指ですくった。笑っていても心は痛い。
それにしても直樹は医者に戻った。琴子は嬉しくてたまらなかった。記憶喪失の満太郎だった時も直樹は医学書に興味を示していた。だから医学知識はきっと奥底に眠っていたのだろう。それを見事に蘇らせることができてこうして働いているに違いない。そして医者として生きることを今、妻になっているであろう沙穂子が認めてくれたことも嬉しかった。
かつて沙穂子は、直樹が医学に興味を持つことをあまり快く思っていなかった。やっぱり沙穂子は優しい女性なのだと思った。
「そういえば」と沙穂子について考えた時、琴子はふと思った。直樹は先程「入江先生」と呼ばれていた。確か大泉家に婿入りするはずだったのに。
それはおそらく、直樹が入江家の長男であることを大泉家側が考慮してくれたのだろうと琴子は結論づけることにした。沙穂子がどれほど尽力してくれたのか。
「やっぱり私なんかより、ずっと直樹坊ちゃんに相応しい方なんだ。」
医者としての直樹に出会えて琴の喜びはすっかり消え去り、琴子には寂しさが残った。



「あれは?」患者で溢れている待合室を歩いていたら、見覚えのある後ろ姿を見つけた。松葉杖をつきながら、周囲を見回している。と思ったら、その松葉杖が床に転がった。
「大丈夫ですか?」
「え?あ、はい。すみません。」
咄嗟に手を差し伸べた直樹に、新川は笑顔で答えた。「手を貸しましょう」と新川の体を支えながら、直樹は少し離れたところに置かれたベンチまで案内することにした。
「なかなか慣れなくて。松葉杖って難しいんですね。」
「遠慮せずに看護婦に言って下さい。」
この間言っておいたのにと直樹が思っていると、
「でも看護婦さんも忙しそうで。それにあまり人に頼ってばかりなのも。」
と新川が恥ずかしそうに言った。気遣いのできる人間と知り、直樹は自分との違いを知らされた気がした。
「…お一人で来院されたのですか?」
この間は琴子が付き添っていたはずだと思いながら直樹は訊ねた。
「いえ、妻が来てくれているのですがまだ戻って来ていないようで。」
新川は混雑している院内を探した。が、琴子の姿は見つからない。まったく夫を放り出してどこをふらふらしているのかと余計なお世話ながら直樹は呆れた。
「まあ、そのうち来るでしょう。きっと看護婦だった時を懐かしく思い出しているに違いありません。」
直樹に対して新川は落ち着いていた。
「看護婦…だったのですか?」
知っているのに知らないふりをする難しさを抱えながら直樹は訊ねた。
「ええ。もっとも終戦前後の短期間だったようですけれど。散歩するように勧めたのは僕で、きっと看護婦さんの様子をじっくり見たいのじゃないかなって。」
本当に心の広い、理解のある男である。自分など足元にも及ばない。この男はきっと辛いことがあっても酒を飲んで商売女とあわや…ということは決してないだろう。
「お忙しい所、ありがとうございました。」
「お気をつけて。」
直樹は琴子に会わないうちにと、新川の前から姿を消した。



それから十日ほど経った頃、新川は横浜へ出張することになった。
「大丈夫ですか?」
まだ松葉杖をついている新川を琴子は何度も心配していた。
「ああ。それより君の方こそ気を付けて…と、真瀬さんの所へ泊りに行くんだっけ?」
自分の留守中、防犯のことも気がかりだし、一人で家で過ごすくらいなら里帰りでもしたらと勧められ琴子は真瀬家を訪れることになっていた。
「ゆっくりしておいで」と言い残し、真瀬は会社の車で出かけて行った。琴子はそれが見えなくなるまで見送ると、家の中に入った。

家はきちんと片付いていた。居間のソファに一人腰をおろし、琴子は溜息をついた。
何不自由のない暮らしである。このような立派な家に住め、優しい夫。それなのに琴子の心はいつもどこか、ぽっかりと穴が開いているようだった。結婚した時からそうだった。
優しい新川と結婚を決めたのは、新しい人生を送るため。しかしそれだけではなかった。
琴子は「自分の家」が欲しかった。物欲というものではない。幼い頃より入江家、大泉家、真瀬家と他人の家を転々としてきた琴子は、ここが自分が生きる場所なのだ、根づいていい場所なのだという所が欲しかった。新川と結婚したらそれが叶うと思っていた。
が、どうしてだろうか。この新川と二人で暮らす家もそうは思えなかった。ここが本当に自分の家なのだろうか。こんなことを考えることは贅沢だと分かっていてもその思いは消えなかった。

そして重要な点がもう一つ。新川への気持ちがどうしても愛と呼べるようなものではない気がする。勿論、嫌いではない。だから共に暮らしている。しかし直樹と同じ愛なのかと訊かれたら頷くことはできなかった。
それは直樹のことを完全に忘れていないからだろうと思っていた。そのうち直樹の顔も思い出されないほどになったら新川への愛が生まれるに違いない。そう思っている矢先に…直樹と再会してしまった――。



琴子はしっかりと戸締りをして家を出た。しかしその足は真瀬家ではなかった。真瀬家へ向かう前にどうしても行きたい場所が琴子にはあった。
目指す場所の駅に到着し歩き始める。すっかり記憶の中の街とは違っている。戦後すぐは丸焼けだったのにと思いながら、琴子は目的地を見つけた。
それは記憶の中にある屋敷と全然違っていた。が洋館であることは間違いなかった。前より少し小さくなったものの、大きな家が目立つこの辺りでも目を引く豪邸だった。
「綺麗なお家が建ったのね…。」
琴子は感慨深く、門の向こうにそびえる屋敷に目を細めた。門柱には『入江』とあった。
ここで重樹、紀子、裕樹が暮らしている。三人共元気だろうか。だがそこに直樹はいないだろう。名字が入江のままでも、きっと大泉家で暮らしているだろうから。大泉会長が再会いの孫、そして孫婿を手離すわけない。
暫く屋敷を見つめていると、
「あの…何かご用でしょうか。」
声をかけられ、琴子は振り返った。買い物かごを下げている女性が琴子を不審そうに見ている。見覚えのない顔だから新しく雇われている者だろう。
「いえ、すみません。」
琴子は足早にそこを立ち去った。うっかり時間を過ごしてしまった。こんな所に顔を出せる自分ではないのに。



「不審な人間が覗いていた?」
買い物から戻った女中から報告を受けた紀子は「こんな昼間に」と眉を潜めた。
「どういう格好だったの?場合によっては旦那様と相談して警察に言った方がいいかも知れなくてよ。」
「女でした。」
「女?」てっきり胡散臭い男だと思っていた紀子は更に怪訝な顔をした。
「女と思って油断させようという魂胆かしらね?」
とにかく戸締りはしっかりとするようにと女中に命じたところで、「奥様」と運転手がやって来た。
「どうしました?」
運転手は重樹を会社まで送ってきて戻ってきたところのはず。もしは重樹に気になる所があるのかと今度は不安になる紀子だった。
「こちらに戻る際、女性を見かけまして。」
「ああ、報告は今受けたわ。あなたまで気になるなんて余程不審な感じだったのね。」
これは本当に警察に連絡した方がいいかと思った時である。
「いえ、それが…見覚えのある方だったような。」
「我が家の知り合いということ?」
ならば堂々と玄関から入ってくればいいのにと更に不審な気持ちになる紀子に、運転手は言った。
「琴子お嬢様に似ていたような気がします。」
「何ですって…?」と呟いたと同時に紀子は居間を飛び出した。廊下を走り玄関を通りぬけ、門まで一気に走る。羽織っていたショールが飛んで行っても、全然気づかなかった。しかし門の向こうに目をこらしても、そこに琴子はいなかった。
「琴子ちゃん…琴子ちゃんなの…?」
何度も紀子は繰り返す。しかしいくら探しても琴子はいない。
「ああ…。」
「どうしたの、母様。」
座り込んだ紀子に声をかけたのは、試験中で早く帰宅した裕樹だった。
「気分でも悪いの?」
「ううん、何でもないわ。」
裕樹には琴子のことは知らせないでおこうと紀子は決めた。裕樹だけではない、重樹にも、そして直樹にも。後で運転手と女中には口止めをしておかねば。




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ぁ…琴子ちゃん、結婚してたんだ…(>_<)

わかってはいましたが、ショックで…!
で、でも、やっと入江くんの存在を確認しましたね!うれしい!

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わー?つい懐かしさで?琴子ちゃん来ていたんだね?入江君と、琴子ちゃん、結婚している琴子ちゃん?直樹を、忘れるために、新川さんと、結婚したけど、まだまだ?入江君のことは、忘れられないんだね、お互い、思いあっているのに、今でも、直樹の、存在、琴子ちゃんに、とってもお互い、忘れられ何だよね、入江君にとっても、琴子のこと、忘れられない存在だね、琴子ちゃんと、入江君、二人が結ばれる、時は、いつになるんだろうか、軟化?歯がゆいですね。

琴子ちゃんの気持ち

連日の更新ありがとうございますm(_ _)m

琴子ちゃん新川さんと一緒に病院に行って病院中を色々見ていて、やっぱり看護婦さんの事を見てしまいますね。色々と入江君との思い出を思い出している琴子ちゃん切ないです…そんな時に入江君が登場(°д°;;)
琴子ちゃ~ん!入江君は記憶が戻ってるよ~ アホ子とは別れたよ~入江君に会ってあげてよ(>_<)と私は叫びたいです。
新川さんが出張に行き、琴子ちゃんは入江家に行って様子を伺ってましたね。もうちょっと其処に居れば、入江お母さんに会えたのにね…
何時か笑顔で再会出来ると良いのにね。

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きゅ~んってなる(´;ω;`)ウゥゥ

水玉さん、連日の更新ありがとうございます!

ついに、琴子ちゃんも直樹を見つけてしまったんですね。
でも、直樹の記憶が全部戻ってて、いまだに琴子ちゃんの
事が好きなのを知らないからすごく傷ついてて。。。
すごい可愛そう。
本当に心の底から好きになった人だもん、そんな簡単には
忘れられないよね~。
直樹は直樹で、新川さんと話してみていい人ぶりにまた落ち
込んでるし。
ここはやっぱり入江ママが何とかしなくちゃいけないの・・・かな?
でも、琴子が新川と結婚して仲睦まじく暮らしてるなんて知った日
にはまた倒れちゃうんじゃないかと心配です(^_^;)

次の更新も楽しみにしてます!
でも、あまり無理はしないでくださいね~

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毎日の更新ありがとうございます(≧▽≦)
とても楽しみに毎日読ましていただいてます(*^O^*)

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つ、続きが気になります…!>_<)
いつも更新ありがとうございます!!
続きたのしみにしております。

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いつも楽しみに読ませていただいております!

水玉さんこんばんは!
いつも楽しく読ませていたただいております!

連日更新お疲れ様です!!
続きたのしみにしてますね(^0_0^)
すごくたのしみです(^_^)

ねーさんさん、ありがとうございます。

43とこちらへのコメントありがとうございます。
ラマーズ法って(笑)
あ、でも確かに入江くんの苦難はジェットコースターよりも観覧車の方が近いかもしれませんね!
ゆっくりと苦しめていくような感じでしょうか。
ええ、ぜひとも最後までお付き合いください!
へ~そういうお話があったんですね。
兵隊から戻ってきたら奥さんが別の人と結婚してましたというのはよく聞きましたけど。
でも恋人同士がめぐりあえて良かったなと思います。しかもお二人ともご長寿で何より♪

ぷりんさん、ありがとうございます。

44とこちらへのコメントありがとうございます。
そうですよね、途中飛ばしたかと見返しちゃいますよね。ここにきてちょっとスピード上げつつあるので申し訳ありません。
新川さん、いい人だと私も思います。いや~こっちの方がいい人だから入江くんはもう不要とかいわれたらどうしようと思っていたので、運命の人はまだ入江くんと言っていただけて安心しました!

りーすさん、ありがとうございます。

ありがとうございます!こちらこそ、そう言っていただけると嬉しいです。
続きに飽きられないよう、がんばりますね!
どうぞ楽しんでいただけたらと思います♪

つーさん、ありがとうございます。

ありがとうございます!
続き、お待ちくださいね。
つーさんに楽しんでいただけるよう、がんばります!

naokouさん、ありがとうございます。

ありがとうございます。
naokouさんも歯が!!お仲間じゃないですか~。ただの知覚過敏であることを祈っておりますよ!
しかしどうして歯医者というのは行きづらいのでしょうね?あれ、私だけか?
あの痛みに耐えるくらいならさっさと行ったほうがいいとわかっているのに。
毎日ご訪問くださりありがとうございます。
そうです、お互いがお互いのことを認識しちゃいました。
ええ、直樹さんにはしばらく耐えるゾーンを味わっていただく予定でございます(笑)
プロフィール

水玉

Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
そっと見守っていただけたら嬉しいです。

※当ブログに掲載されている文章及びイラストの無断転載・使用はご遠慮下さい。

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このブログについてのお願い
当ブログは、『イタズラなkiss』の二次創作をメインとしておりますが、時折管理人の趣味や日々の出来事についての記事も書いております。

原作者様や関係各位とは一切関係ありません。

二次創作については、いわゆる原作の隙間をぬった作品もありますが、主人公以外のキャラクターをメインとしたものや オリジナルキャラクターが出てくるものもございます。

そして、原作と違った時代(平安や明治やその他の時代を舞台にしております)、異なる設定(主人公を医者と看護師じゃない職業にしております)で書いてあるものが多いですが、原作を冒涜しているつもりは全くございません。

二次創作が苦手という方及び原作のイメージと合わないと思われる方はどうぞお引き取り下さいますようお願いいたします。

コメント及びメールなどでの苦情及び批判は公開、非公開を問わず、私へ告げることはご遠慮いただけますよう、お願い申し上げます。

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