日々草子 永遠に君を愛す 37

永遠に君を愛す 37






朝一番で琴子の姿を病院で見つけた西垣は腰を抜かさんばかりに驚いた。夜中に入江家を出た後、琴子はまずは西垣に挨拶をと律儀に考え、病院の軒下で夜明けを待っていたのだという。
幸い、この日の午前中は予約が入っていなかったこともあり西垣は琴子の話をゆっくりと聞く時間が取れた。琴子が直樹と沙穂子の将来を思い家を出て来たことを知った西垣は言った。
「だからといって、入江家を出なくても。」
入江夫妻は息子と琴子の縁が切れたからといって、琴子を厄介者扱いすることは決してない。それは数回しか夫妻と話をしたことのない西垣にもよく分かっていた。
「でも、私がいるといいことはありません。」
「そんなことないさ。」
琴子は何も悪いことはしていない。堂々と入江家にいていいのだと西垣は何度も言ったが、それでも琴子は「それでは駄目なのです」としか言わなかった。
「それに、私…やっぱり直樹坊ちゃんに嫌われてしまったんだと思うんです。」
西垣は直樹の琴子への気持ちが強すぎる故、琴子を幸せにできない苦しさから逃れようとした結果、琴子を忘れるという心理状態になってしまったと話してくれたが、琴子はそうは思っていなかった。
「少し前から、直樹坊ちゃんは私のことを怒っておいででした。裕樹坊ちゃんといるところをどこかで見たらしくて、夫が戦死したのに違う男性と親しげにしているとか言っていましたし。」
「それは嫉妬ってやつだよ。」
やはり直樹は満太郎の時に、再び琴子に恋をしていたのだと西垣は確信した。そこだけは自分の読みは間違っていなかった。
「嫉妬なんて、直樹坊ちゃんはそんなことをする人ではありません。」琴子は断言した。「直樹坊ちゃんは真面目な方なので、女性がすぐに男性と仲良くなるようなことが許せないのです。昔もありました。」
と、琴子は看護学校時代に直樹の友人と一時期仲良くなっていた時に勉強もしないでと怒られたことを打ち明けた。
「考えてみたら、その頃から私ってだらしない人間だったんですね。」
「何を言ってるのさ。間違いなく嫉妬だよ。君の旦那は昔から嫉妬深かったんだよ。」
「嫉妬なんてしません。坊ちゃんは自分にも他人にも厳しい人なんです。」
「違うって。大体さ、君の幸せを願ってあれだけ準備をしていった男だろ?それだけ琴子ちゃんを愛していたわけで、そりゃあ嫉妬するくらい当たり前で。」
「そうでしょうか?」
西垣に言われてもまだ琴子は信じていなかった。

「…それはともかくとして、今の直樹坊ちゃんが気にかけている女性は沙穂子お嬢様だけなんです。私の存在はもう直樹坊ちゃんのどこにもないんです。」
琴子は悲しげに目を伏せた。今までの話を聞いて、琴子がどれほど強く直樹の幸せを願っているかは西垣にも痛いくらい伝わった。
「琴子ちゃんは…本当にそれでいいの?」
もう琴子を止めることはできないだろうと思いつつ、西垣はもう一度最後に確認した。
「はい…私はこれがあるから。」
琴子は古ぼけた肩掛けカバンから油紙に包まれたものを取り出した。
「西垣先生には本当にお世話になったので、特別に。」
悪戯っぽく笑うと、琴子は西垣の前にあの直樹の手紙を広げた。『琴子、永遠に君を愛す』…この一文が西垣の心を打った。これを書いた時、入江直樹は本当に琴子を愛していたのだと思う。
「私はこの手紙があるから大丈夫です。」
これは記憶を失う前に、直樹が自分を確かに愛してくれていたことの大切な証だった。ブローチを失くした今、琴子にとっては何よりも大切なものだ。
「そうだ」と西垣はあることを思い出した。机の引き出しを開けるのを琴子は不思議そうに見ていた。
「琴子ちゃん、これ、よかったら。」
西垣が琴子に渡したのは、直樹の似顔絵だった。
「これ、どうしたんですか?」
「実は」と西垣は密かに満太郎の正体を探っていたことを打ち明けた。「ごめんね、コソコソと気味の悪いことをして。」
もし満太郎の正体が判明しなかったら琴子をがっかりさせることになるから、はっきりとするまでは黙っていたのだと謝る西垣に「とんでもない」と琴子は手を振った。
「ありがとうございます、先生。お忙しいのにここまでして下さって…。」
本当に大泉家の仕事の紹介から何から何まで、西垣には世話になりっぱなしだと琴子は頭を下げた。
「でもこれ、直樹坊ちゃんにそっくり。写真みたいですね。」
「それね、進くんが描いたんだ。」
琴子は驚いて窓の外を見た。今日も進はせっせと靴を磨いていた。進にお礼を言いたいところではあるが、よすことにしようと琴子は思った。別れが辛いし、色々聞かれても答えることが辛い。
「直樹坊ちゃんの写真は持っていないので…とても嬉しいです。大事にします。」
琴子は大切そうにそれを、手紙と一緒に油紙で包みカバンの中へしまった。

「琴子ちゃん、看護婦は無理かもしれないけど、この病院で何か仕事がないか聞いてあげるよ。」
「いえ、ありがとうございます。大丈夫です。」
「だって。」
入江家を出た琴子が行くあてがないことは、西垣が一番知っている。
「先生のお気持ちはとても嬉しいですが、ここにいたら…。」
「ああ、そうか」と西垣は気付いた。ここには直樹が通院してくる。おそらく沙穂子を伴って。いくら自分から身を引いたとはいえ直樹と顔を合わせる可能性が高い所にはいたくないだろう。
「本当に大丈夫です。終戦直後の冷たい海に沈んだ時を思えば何だってできますから。」
自分には看護婦免許があるしと琴子は西垣を逆に励ますように笑った。
「何か困ったことがあったら、遠慮しないで言ってくるんだよ。」
何度も何度も西垣は念を押し、不安を隠して琴子を送り出すしかできなかった。



西垣にはああ言ったものの、看護婦としての働き口が見つかりにくいことは琴子は分かっていた。
とにかく大泉家や入江家のある街から遠ざかろうと、琴子は電車に揺られ人が多そうな街に降り立った。
「何日かは旅館に泊まれるかしら?」
琴子は懐に手を押しあてた。大泉家からもらっていた給料を、入江家に一度戻った時に重樹たちに渡そうとしたのだが、琴子が働いたものだからと二人は頑として受け取らなかった。それが懐に入っている。だがこれを当てにするわけにはいかない。
「仕事を探さないと…。」
琴子は賑わう闇市に足を踏み入れた。トタンの壁に仕事を求める貼り紙があるが、募集の文字はない。
「このご時世、何でもやるという意気込みがないと務まらないよ。」
貼り紙に見入っていた琴子の後ろから声が聞こえた。振り返るとくたびれた国民服姿の男が琴子を見ていた。
「仕事を探しているのかい?」
「…はい。」
「ふうん。」
男はジロジロと琴子を見た。もしかしたら何か仕事を与えてくれるのではと琴子は期待で胸を膨らませた。この機会を逃すわけにはいかない。
「あ、あの!私、看護婦の資格があります。」
「看護婦?」
胡散臭そうに男は琴子を見た。本当だと琴子は力強く言った。
「看護婦ってことは、人の世話が好きってことかい?」
「はい!」
「それは…使えるかもしれないな。」
「ついて来い」と男は顎を動かした。琴子は「はい」と返事をしてついて行った。

男は闇市を抜け、賑やかな場所から離れた所へと歩いて行った。琴子は辺りを見回しながらはぐれないよう付いて行く。こんな所に働き口はあるのだろうか。
到着したのは、掘っ立て小屋だった。入口に今にもバラバラになりそうな簾が下がっており、建てつけの悪い戸を男は開けた。「入りな。」
カバンを抱え、琴子は恐る恐る中へ入った。散らかったそこに、男と同じくらいの年齢の女が煙草の煙を吐き出していた。
「新しいの、つかまえてきたのかい?」
女は煙草を押しつぶすと、琴子の前に立った。余程吸っていたのか、近づいただけで煙草の匂いが琴子の鼻をくすぐった。
「…子供っぽいからどうかとも思うんだが。」
男は女に意見を求めた。子供っぽい?どういうことだろうか。
二人は琴子にそこで待っているよう言い、家から出た。
「毛色の変わったのもたまにはいいだろうよ。そういうのが好きってのもいそうだよ、ほら。」
女は紙の束を男へ放り投げた。男はそれを見ながら「ああ、物好きもいるもんだ」と呟いた。
「ちょうどああいうのがいいっていう客が出たところなんだ。高く売りつけてやろう。」
「大丈夫かね?」
「平気さ。」
家の中に戻った二人に琴子は「あの、誰かのお世話をするのですか?」と質問してみた。
「…そうだね。」
「結構な年寄りだけど、大丈夫かい?」
「それは平気です。」琴子は笑った。年寄りの世話だって何だって平気だ。
「そうかい、そうかい。じゃあもうすぐ迎えが来るから。」
大泉家で使用人として働いていたとはいえ、大きな屋敷の中で暮らしていた琴子は世間をよく分かっていなかった。この男女がどういう仕事をしているか、そしてこれから自分が何をさせられるのか全く分かっていない。

三十分ほどすると、家の前に車が止まった。その音を聞きつけ男女が外に出た。
「ええ、ちょうどいい子が。」
揉み手をしながら男と女が戻って来た。その後ろにいるのは小さい猿のような顔をした、禿頭の老人であった。
「この子かい?」
老人が嫌らしい笑みを浮かべ琴子を見た。琴子はこの老人が自分が世話をする相手かと疑問に思った。どう見ても看護が必要には見えない。
「さ、御挨拶をしな。」女が琴子に命じた。
「あ、あの…。」
戸惑う琴子に「ああ、いい。さっさと行こう。」と老人は琴子の手を引っ張った。
「え?あの、ちょっと?」
この老人とも思えない力は病人ではない。
「すみません、私は…。」
「何をごちゃごちゃ言ってるんだい。」と女が琴子を睨んだ。そしてヤニ臭い息をさせながら琴子の耳に口を近づけ、言った。「たっぷりと可愛がってもらいな。」
この一言で、この男女がどんな生業をしているか、そして自分が何をさせられようとしているのか、漸く琴子はここで理解した。
「そんなの、絶対嫌!」
「何を言ってるんだ、このアマ!」男は琴子を怒鳴りつけるとすぐに表情を変え「すみませんね、旦那。なあに、うまいこと言えば問題ありませんから。」と老人に媚を売った。
「まあいい。嫌がるのを無理に…というのも面白い。」老人はさして機嫌を損ねることなくニヤリと笑った。そして待っていた運転手に手伝わせ琴子を車へ押し込んだ。
「助けて!嫌!!」
騒ぐ琴子を後部座席へ乗せると運転手がドアを閉めた。そして車はエンジンを噴かせて掘っ立て小屋から遠ざかって行った――。



琴子が消えて一月が経った。紀子はショックで再び伏せってしまった。無理もないと裕樹も重樹も思った。あれほど会いたがっていた琴子がいなくなってしまったのだから。
「琴子ちゃん…私のせいだわ。」
自分が何も考えず、直樹に会いに行ってしまったから。琴子に余計な気を遣わせてしまった。紀子は何度も自分を責めた。その度に、
「そんなことない。お前のせいじゃない。」
「そうだよ。琴子も母様も辛いのは同じだ。」
と、重樹と裕樹は慰め続けていた。
「こんな…混乱した中で女の子が一人で生きていけるわけないわ。」
一体どこへ行ったのか。無事なのだろうか。家に籠っている紀子に比べ、重樹は世間が分かっていた。女一人生きて行くために何をしているか…琴子が無事であることを祈るしかできない自分が重樹は情けなかった。

そういった重い雰囲気が入江家を再び包んでいた頃、来客があった。
その時、学校から帰った裕樹は紀子の傍にいた。来客と女中から聞き一体誰だと思った。
「大泉様のお嬢様でございます。」
それを聞いた裕樹と紀子の顔色が変わった。何でも紀子の具合が悪いことを聞き、見舞いに来たのだという――。




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何しに来たんだ!と言いたい

琴子ちゃんが大変な事に…いったいどうなったんだろう心配です…琴子ちゃんが居なくなって入江お母さん寝込んじゃいましたね。無理もないですやっと会えたのに入江君は記憶喪失だし、琴子ちゃんは入江家を出ていっちゃったもんね…そんな時にあのアホ子が入江家に来たですって~私は何しに来たんだって言いたいです。(*`θ´*)こんな事になったのはアホ子のせいなのに…裕樹君ガツンと言ってやってよ~そうじゃなきゃ琴子ちゃんが可哀想です(;O;),

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あほ子!何しに来たの?あほ子に、塩でもまいてやれよ。

何てこったい。

純真無垢な琴子ちゃんの事だから、へんな人に売り飛ばされなければいいけどって思ってたら・・・やっぱそうなっちゃうか(;・ω・)
ひたすらに不幸のジェットコースターに振り回され続ける琴子ちゃん。
本当に可哀想(。>д<)
琴子がそんな目に会ってる最中に、アホ子が入江家に‼
なんですか?もう嫁面ですか!?
他の皆さんが仰られてるように、何しに来たんだって言ってやれ!んで塩もこれでもかって言うくらい撒いてやったらいいんですよ( ̄ー ̄)

琴子はこれからどうなるんでしょう?
次の更新も楽しみにしてますね~O(≧∇≦)O

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プロフィール

水玉

Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
そっと見守っていただけたら嬉しいです。

※当ブログに掲載されている文章及びイラストの無断転載・使用はご遠慮下さい。

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このブログについてのお願い
当ブログは、『イタズラなkiss』の二次創作をメインとしておりますが、時折管理人の趣味や日々の出来事についての記事も書いております。

原作者様や関係各位とは一切関係ありません。

二次創作については、いわゆる原作の隙間をぬった作品もありますが、主人公以外のキャラクターをメインとしたものや オリジナルキャラクターが出てくるものもございます。

そして、原作と違った時代(平安や明治やその他の時代を舞台にしております)、異なる設定(主人公を医者と看護師じゃない職業にしております)で書いてあるものが多いですが、原作を冒涜しているつもりは全くございません。

二次創作が苦手という方及び原作のイメージと合わないと思われる方はどうぞお引き取り下さいますようお願いいたします。

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