日々草子 サブ・ローザ 10

サブ・ローザ 10





「こういうお店って、注文の仕方が分からないから入るのにためらうんだよね。」
琴子が運んできたコーヒーを受け取りながら、前田教授が笑った。
「私もです。ショート、トール?え?SとかMとかじゃないの?という感じで。」
クスクスと笑いながら、琴子は前田教授の前に座る。
大学病院近くのコーヒーショップは、夕食時に近い時間のためかさほど混雑をしていなかった。
おかげで二人は誰にも邪魔されない、店の一番奥のスペースに陣取ることができた。

「悪かったね、突然呼び止めて。」
「とんでもありません。」
「今、どこの担当?」
「VIP…特別病棟です。」
「ああ、あそこか。面倒な患者が多い所だね。」
顔をしかめる前田教授はとても医学界のその分野の権威には見えない。
「学長になるとなかなか病院に足を運べなくて、挨拶だとかつまらない仕事ばかりだよ。」
前田教授は神戸医大の学長である。本来ならば琴子が話をできるような人間ではない。だが、本人は学長に就任しても専門である小児医学の研究をつづけ、暇を見つけては病棟、外来に足を運んでいることを琴子も知っていた。

「入江先生ともうまくやってる?」
「…はい。」
そう答えるしか琴子にはできなかった。
「そうか。ちょっと心配していたから。」
やはり、前田教授は理志の騒ぎを知っていて、自分に声をかけてきたのかと琴子は思った。
「…すみません、ご心配をおかけして。」
この病院で琴子と直樹の関係を優しく見守ってくれている前田教授に申し訳ない。

「いや、そりゃそうだよ。うん、琴子さんも心配だよね。」
「え?」
琴子は顔を上げた。どうもおかしい。
「あれ?」
そしておかしいと思ったのは前田教授も同じであった。コーヒーを手に琴子を見ている。
「…ええと、もしかして?」
「もしかして?」
理志との騒ぎではないのかと琴子はここで気づく。何か別のことがあるのだろうか。

「琴子さん…入江先生の手のこと、知らない?」
「入江先生の…手?」

「あちゃー、言ってないのか!」
前田教授が額に手をやった。
「あの、どういうことでしょうか?手が、入江先生の手が何か?」
「…そうだよな。あの性格じゃ言うわけないか。」
「前田教授、お願いします。教えて下さい。」
これはただ事ではないと、琴子は身を乗り出した。
「私、今入江先生と一緒に患者さんを担当しているんです。」
この言葉に教授は、
「それじゃあ話しておいた方がいいか。」
と呟いた。

「…入江先生は処置の時、一瞬だけど手が震える時がある。」
「震える?」
「そう。本当にわずかな間。だから処置には今の所問題は起きていない。気づいたのもおそらく僕くらいだろうな。」
「いえ…。」
琴子はテーブルの下でスカートを握りしめた。
「私も…今日気づきました…。」
数時間前、寺崎の発作の処置をする時、直樹の手が一瞬震えたのを琴子は見ていた。
「そうか。やっぱり奥さんだから気づいたのかな。」
前田教授が優しく言った。
「それって、必ず起きているんですか?」
最近直樹とは寺崎の前でしか一緒にいない。他の患者の処置の様子を琴子は知らない。
「いいや。特定の患者の時だね。」
「特定の患者?」
「心臓疾患の患者。」
「心臓疾患。」
まさしく寺崎はその患者であった。

「念のために手を調べてみたんだが、特に問題はなかった。」
「そうですか。」
琴子は少しホッとした。
「だけど、これが治まらないようだと話は難しいね。」
前田教授からは彼の信条である「スマイル」がすっかり消えていた。それだけ問題は重大なのである。

「琴子さんの話によると、今日も入江先生の手はおかしくなった。」
「…はい。」
見間違いではない。
「あまりに続くと、こちらとしても引導を渡す必要がある。」
「引導?」
「…臨床医はあきらめてもらうということだよ。」
琴子はまるで自分が看護師をあきらめろと言われたような気分で、目の前が真っ暗になった。
「臨床医をやめるって、それって医者をやめるってことですか?」
「いやいや。医者は臨床だけじゃないから。研究医という道もあるし。」
前田教授の妻は小児科の研究医である。
「あの優秀な頭脳なら確かに研究医としても成功するとは思うけれどね…でも。」
前田教授の顔は苦しそうに歪む。
「…入江先生はいい臨床医になると思っているから。可愛い教え子にそれをあきらめろということ、僕はできればしたくない。でも…。」
患者のことを考えれば、そうせざるを得ない。前田教授の顔はそう語っていた。

前田教授と別れ、琴子はどう歩いて自宅へ戻って来たか分からなかった。
気付いたらリビングの真ん中にペタンと腰を下ろしていた。

「入江くんがそんなに苦しんでいたなんて…。」
琴子は着替えることもせず、明かりをつけることもなく、そこに座っていた。
「私は全然気づかなかった…どうして話してくれなかったの?」
呟いてすぐに琴子は頭を振った。
違う。直樹は話さなかったのではない。琴子が話を聞く姿勢じゃなかった。
思えばこの前から直樹は考え事をしていた。その時にもっと深く訊ねていればよかったのに、何も訊かなかった。
その挙句にこんな騒動を起こした。そんな自分に悩みなど打ち明けられるわけがない。

「入江くん…ごめんなさい…。」
涙をぽろぽろとこぼしたところでどうなるわけでもないが、琴子は泣かずにいられなかった。
「私、奥さんも失格、看護師も失格…ううん、もう人間失格…。」
耐え切れず、琴子はわっと泣き出してしまった。





「入江…先生?」
「気づかれましたね。」
目を開けた寺崎に、直樹の顔が和らいだ。
「落ち着いています。ご気分は?」
「大丈夫です。もう夜ですか?」
直樹に酸素マスクを外してもらいながら、寺崎はカーテンが閉まった窓に目をやる。
「ええ、10時過ぎていますね。」
「確かあいつが来たのは1時過ぎだったから…。」
「大分休んでいらしたことになります。」
「秘書たちは?」
寺崎はあえて理志の名前を出さずに尋ねた。
「…理志さんが連絡を入れたらしく、寺崎さんが倒れてすぐに飛んでいらっしゃいました。夕方まで別室で待っていらしたのですが、目が覚めてもお話ができるか判断できなかったので、一度戻っていただきました。」
「そうですか。」
妻の波名子にも秘書から連絡を入れたらしいが、来るかどうかまでは分からないとのことであった。

「お見苦しい所を見せてしまいました…。」
天井を見つめ、寺崎が自嘲する。
「先生は、お若いのに本当にご立派ですね。」
「いえ、そんなことは。ただ患者の前では年齢は関係ありません。若かろうが年をとっていようが、患者にとっては医者です。甘えは許されませんから。」
「やっぱりすごいな、入江先生は。」
フッと寺崎は笑った。
「入江先生のお父さんがうらやましい。こんなご立派な息子さんをお持ちで。」
「…本人に言ったら、腹を抱えて笑うと思いますけれど。」
寺崎はまた笑った。

「ねえ、先生。」
どうやら気分は大分いいらしい。寺崎の口は止まる様子がなかった。
「どうして子供は親の気持ちを理解してくれないんでしょうか?」
「難しい質問ですね。」
「親としては、子供に苦労をさせたくない。辛い思いをさせないよう道を作ってあげたい。それが子供にとっては迷惑だったらしい。」
理志との喧嘩の理由かと、直樹は思い当たった。
「…落選したら無職になることは間違いない。そうならないよう、私が頑張り地盤を固め、しっかりとした立場を作り譲ろうと思ったのだが。」
かつて理志と同じことをした自分に、どんな言葉をかけられるだろうか。答える資格は自分にはないと直樹は思う――。





前田教授の話を聞いた後、琴子が初めて直樹を見かけたのは、職員食堂であった。
並ぼうとトレイを手にした琴子の視線の先、窓際の席に直樹は座っていた。そして一人じゃなかった。
噂になっている、看護師の黒田が直樹の前で笑っている。直樹も一緒に笑っている。

「入江先生、すっかり黒田さんと仲良しね。」
琴子の後ろの方で誰かが話す声が聞こえた。
「こりゃ、ゴールインかしら?」
ということは、近いうちに今度は自分が直樹から引導を渡されるということか。
琴子に気づくこともなく、黒田が笑いながら自分の皿からおかずを直樹の皿へ入れている。
すると、直樹も自分のおかずを黒田の皿へと入れた。
「おかずの交換かあ。」
「完全、カップル。」
耳に入る噂に琴子はいたたまれなくなった。トレイを元の場所へ戻し列から離れる。
自分のような思いやりの欠片もない人間より、黒田の方が今の直樹には必要に違いない。黒田の明るい性格ならば、直樹のいい支えになるだろう――。







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お久し振りです!

水玉さん、こんにちは。
御無沙汰しています。
お話は拝見させていただいていながら、コメントが出来ていませんでしたね。
毎回、本当に素晴らしい作品を書き上げていらっしゃいますね。
今回も、本当に読み応えの作品に仕上がっていますね。

直樹の嫉妬全開、琴子との距離を。
今は、あなたの手の事を気づいているのは前田教授と琴子だけ。
直樹、ばれてはいないと思っているのでは??、それで、琴子が泣いていた事、引導を渡されるかもしれないと言う事、分かっているのかぁ??
琴子と寺崎氏の息子に嫉妬してるし、看護師の黒田さんとおかずの交換なんかして、皆に見せ付けるような態度を。
琴子に態々、知らせるような仕打ちを。
もう、琴子のこと、眼中に無いの?
琴子と別れても良いと思っているんだぁ?
琴子は、直樹の手を心配してるのに。
もう、琴子、直樹の心配しなくても良いのでは。おかず交換の彼女に任せたら。
皆が、二人が結婚まじかではと思ってるし。
この後の、展開楽しみにしています。

暑いですから、お身体ご自愛くださいねぇ。

水玉さん♪更新ありがとうございます♪

もう!!直樹さん!!何、おかずの交換しているんですか!!!ちょっと何を考えているのかしら??

スマイル教授の登場で、喜んでいた私も束の間で、直樹さん大変ですね。だから余計におかずの交換に腹が立つ!!!琴子ちゃん!頑張れ!

以前に白衣の裾を握りしめて放さないと宣言していた琴子ちゃん、そして白衣の裾を放しても手を離さないと宣言した直樹さん!!あの時を思い出そう!!
勝手にドナドナ宣言しておかずの交換している場合じゃないよ!!!

って、そんなこんなで続きとっても楽しみにしています!!

サブ・ローザ

始めまして、水玉さん、神戸シリーズの流れですよね?琴子ちゃん入江君の為に相応しい看護師に成るって、琴子一途さ何処へ?琴子は俺だけしか好きに成れないて自惚れ何処へ?琴子の猪突猛進と極度の焼きもち焼きの入江君、二人の気持ちのすれ違いが!!・・・・でも、水玉さん最後はハッピーエンドですよね?琴子と直樹は幸せに成って貰わないとね、まだまだ暑いですがお体に気を付けてくださいね、続き楽しみに待ってます。

ミチさん、ありがとうございます。

お返事遅くなり申し訳ありません。
おかずの交換はショックですよね。
続き楽しみにしていてくださいね~!

佑さん、ありがとうございます。

お返事遅くなり申しわけありません。

本当に絡まり過ぎて…でも絡まって糸はほどけないけど、切れにくかったりもしますから…。
そんなボディに響くなんて。
佑さんのボディに響くなら何よりですよ(ニヤリ)
プロフィール

水玉

Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
そっと見守っていただけたら嬉しいです。

※当ブログに掲載されている文章及びイラストの無断転載・使用はご遠慮下さい。

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御訪問ありがとうございます
このブログについてのお願い
当ブログは、『イタズラなkiss』の二次創作をメインとしておりますが、時折管理人の趣味や日々の出来事についての記事も書いております。

原作者様や関係各位とは一切関係ありません。

二次創作については、いわゆる原作の隙間をぬった作品もありますが、主人公以外のキャラクターをメインとしたものや オリジナルキャラクターが出てくるものもございます。

そして、原作と違った時代(平安や明治やその他の時代を舞台にしております)、異なる設定(主人公を医者と看護師じゃない職業にしております)で書いてあるものが多いですが、原作を冒涜しているつもりは全くございません。

二次創作が苦手という方及び原作のイメージと合わないと思われる方はどうぞお引き取り下さいますようお願いいたします。

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