日々草子 縁ありて 18

2013.02.15 (Fri)

縁ありて 18


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もう家に戻らなくなってどれほど経っただろうか。
お琴の元に使いを出すときちんとお金が届けられる。
「主様の奥方様は賢妻でありんす。」
と花魁までも感心するくらいだった。

この夜も直樹は花魁や禿たちと酒を飲んでいた。
「花魁…。」
禿が花魁に何か耳打ちした。すると花魁がおもむろに立ち上がった。
「ちょっと失礼を。」
花魁たちはぞろぞろと座敷を出て行く。直樹は何事かと、それでも横になったままけだるそうにその様子を見ていた。

「ずいぶん豪勢なことをされておいでですな、入江大先生。」
襖がスッと開き、入ってきたのは。
「渡辺屋じゃねえか。」
渡辺屋が腕を組み、冷たい目を直樹へ向けていた。その顔は長い付き合いの中でも直樹が見たことのない、ゾッとするものであった。普段温和な男から笑みを消すとこういう顔になるのかと思うほど。

「…成程、お前が花魁たちを追い出したってわけか。」
「こういう場所はこれで大抵のことが通用するからな。」
渡辺屋の手には一両小判が数枚キラキラと輝きを放っていた。
「さすがさすが、分限者は違うことで。」
「ああ、金持ちでよかったよ。」
「…まさかお前がそういう金の使い方をするとはな。」
直樹は渡辺屋をからかうことを止め、起き上がった。
「普段はしないさ。だが。」
渡辺屋は後ろを見た。するとお琴がおずおずと姿を見せた。
「お琴ちゃんがどうしてもお前に会いたいって言うから。こんな場所に一人でやるわけにいかないだろう。」
お琴はぺこりと頭を下げた。

「師匠…。」
渡辺屋の隣にお琴もぺたんと腰を下ろした。
「あの…そろそろ…帰りませんか?」
何と言い出そうかとずっと考えていたのだろう。膝を握りしめお琴が口を開いた。
「文を残しておいたはずだ。」
直樹はお琴を見ることなく答える。
「でも…。」
「入江、お前の気持ちはよく分かる。」
このままではお琴は何も言えないだろう。渡辺屋が間に入った。
「一番辛いのはお前だ。だが、お琴ちゃんだってそんなお前を見て苦しいんだ。」
「ここは極楽だ。最高だ。」
直樹が座敷を見回した。
「酒はある、美人はいる。男にとって最高だと思わないか?」
「入江、お前なあ。」
直樹はお琴をそこで初めて見た。突然視線を向けられお琴は思わず俯いてしまった。
「…もう、ねんねの相手は飽きた。」
「ねんね…?」
「そうだ。何せここの女は。」
直樹はお琴をじっと見る。
「…床上手だからな。誰かとは雲泥の差。」
途端にお琴の顔が真っ赤になった。
「入江、お前言っていいことと悪いことがあるぞ!!」
これには渡辺屋が怒鳴らずにいられなかった。
「本当のことだ。」
「入江、お前!!」
お琴が黙って立ち上がり、襖をガラッと開けた。そしてバタバタと足音を立てて階段を下りていく。

「…何でわざとそんなことを言うんだ。」
お琴がいなくなった部屋で、渡辺屋が悲しい顔を直樹へ向けた。
「こんなところに入り浸ったり、お琴ちゃんをわざと苦しめることをして。自分の存在がお琴ちゃんを苦しめているから開放したいとでも思っているのか?」
直樹がこんなバカげた行動をとることには何か原因があると渡辺屋は思っている。
「あいつ見ていると、腹が立つんだ。」
直樹は窓際に肘をつき、外に目をやった。
「腹が立つ?」
「私のせいで師匠が苦しんでいるっていう顔をずっとしていて。そんなことないんだけどな。」
「だったらそう言ってやればいい。」
「だけど言っても俺の気持ちが晴れるわけじゃない。」
「入江…。」
「…俺が身勝手なことを口にしているってことはよく分かっている。元々の原因は俺の出自なんだからな。」
「そんなことはないよ。それは違う。」
渡辺屋は親友の深い心の闇を何とか明るくしたいと懸命であった。
「入江、お前の気持ちがわかるなんてことは軽々しく俺もお琴ちゃんも入江様たちも言えない。でもお前の傷の深さがどれほどあって、今のお前の辛い気持ちに少しでも寄り添いたいと思っているんだぞ?」
「ああ…だけど俺の苦しみは増す一方なんだ。」
直樹が目を細めた。
「分かってる。俺自身が乗り越えなければいけないってことはよく分かってる。皆が俺のために尽力してくれていることも痛い位分かっている。俺は本当に感謝している。でもどうしても俺のここの中は晴れてくれないんだ。」
直樹は自分の胸を叩いた。
「それでお琴にぶつけて苦しめて。お琴は何も悪くないのに。最低な男だ。だけどどうしていいか自分が分からない。何が一番いいことなのか、今の俺には何も分からないんだ。」
「入江…。」
「…俺なんて生まれてこない方がよかった。」
渡辺屋は直樹をこれ以上責めることはできなかった。

「これを置いて行くよ。」
渡辺屋は袱紗に包んだ物を畳の上に置いた。それは小判の切り餅一つ。
「こんな大金をお前から…。」
「勘違いするな。これはお前の仕事の前払いだ。」
渡辺屋は直樹を手で制した。
「お琴ちゃんをこれ以上苦しめたくないと思うなら、ここで遊ぶ金にこれを使ってくれ。お琴ちゃんにここの支払いをさせるなんて真似はやめてくれ。お前がまた仕事に戻ったらこき使ってやるからそのつもりで。」

去り際、渡辺屋が最後に話しかけた。
「覚えているか、入江?」
直樹が顔を上げる。
「俺が渡辺屋の養子になると決めた時、旗本のバカ息子たちが俺をからかっただろ?」
直樹は思い出す。


**********
「金で身売りをしたダメ男~」「親に売られたんだぜえ」と、普段学問や武術で渡辺屋に適わなかった旗本の子息たちが道場の帰り、渡辺屋を見下していた。
「何で武士を捨てる奴が剣をまだ習っているんだよ」「ほらほら、商人なんだから俺たちに頭を下げろよ」「地べたに這いつくばってさ」と、無視する渡辺屋にしつこくからんでいた。渡辺屋はここで手を出したら実家や祖母の店に迷惑がかかるとじっと耐えていた。

ビュッ!!
ぐしょっ!!

「何だ、これ!!」
突然顔にぶつけられた物に子息たちが声を上げた。
「これ、腐った果物だぜ!」
どこから飛んで来たのかと顔にくっついた物を取りながら辺りを見回す子息たち。

「根性が腐っている奴にはよく似合ってるぜ。」
そこに現れたのは、竹刀を肩にかついだ直樹であった。
「入江!」
「何だ、お前!」
ここにいる人間の中で一番大身の家に生まれた直樹の登場に、ドラ息子たちが怯える。
「ここでもこっちでも敵わないから、汚い真似をしやがる。」
直樹は頭、そして竹刀を示しながら相手を一睨みした。
「だからお前ら、いつも師匠に怒られているんだ。」
「何だと!」
「お前、生意気すぎるんだ、ちょっと賢いからって。」
「お前らよりは賢いことに自信はある。」
「この野郎!」
自分たちの方が人数は多い。ドラ息子たちは手にしていた竹刀を直樹へ向けた。
「入江、俺は平気だから。」
さすがに直樹もこれでは勝てないと渡辺屋は心配した。
「相手にしない方がいい。お前の家にも迷惑が…。」
「おい、お前は絶対手を出すなよ。」
直樹が渡辺屋に声をかけた。
「こいつら、卑怯だからお前が手を出したら絶対そこをついてくる。お前のおばば様の店に迷惑をかけたくなかったら少し辛抱してろ。」
「入江、それはお前だって。」
「大丈夫、俺がこんな奴らに負けるか。」
直樹はニヤッと笑うと、竹刀を相手に突き出した。
それを合図にドラ息子たちが「やあっ!!」と声を出しながら直樹に突進してきた――。

**********

「あれはすごかったな。」
渡辺屋が思い出し笑いを浮かべる。
「あっという間にあいつらを叩き伏せてさ。俺、お前があんなに強いなんて思わなかった。」
「…昔のことだ。」
そして直樹の家に遠慮して、ドラ息子たちは誰も文句を言うことなく(大勢で向かっておきながら負けたことも恥ずかしかったのだろう)、直樹がついているということで渡辺屋への嫌がらせも止まった。

「俺は信じているからな、お前はあの時と変わってないって。お前はあの時と同じように強く優しい男だって信じている。」



お琴は直樹に酷い言葉をぶつけられても、家にいた。
泣く気力ももうなかった。それくらいお琴は直樹の言葉に傷ついていた。
だが、渡辺屋から話を聞いてお琴は直樹の心の方がずっと深く傷ついていることを知った。
「生まれて来ない方がよかった」なんてあの直樹が言うとは。そしてそんな直樹を慰めることのできない自分の愚かさが嫌になってくるお琴であった。

そんな日々を過ごすお琴の元に訪れる者があった。
「渡辺屋さんのところの…。」
訊ねてきたのは渡辺屋の番頭であった。お琴もよく顔を知っている。それにしても番頭がこの家を訪れるというのは珍しい。とうとう渡辺屋も直樹に愛想を尽かしてしまったかと、お琴は不安になった。

「申し訳ございません、手前どもの店にお越しいただけませんでしょうか?」
「お店に?」
直樹はずっと留守なので作品など一つも仕上がっていない。そう言うと、
「いえ、お琴様にぜひともと、主からの申しつけでございます。」
という返事である。
渡辺屋が自分を店に呼ぶなんて初めてではないだろうか。一体どういうことだろうとお琴は首を傾げた。
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 |  2013.02.15(Fri) 19:36 |   |  【コメント編集】

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 |  2013.02.15(Fri) 21:37 |   |  【コメント編集】

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 |  2013.02.15(Fri) 22:08 |   |  【コメント編集】

なんてヘタレなんでしょう!!! これが自分の旦那(私が琴子)なら 一回目の代金の支払い時に 乗り込んで行って 張り倒してますわぁ~(`ε´)
アンユリ |  2013.02.16(Sat) 21:50 |  URL |  【コメント編集】

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 |  2013.02.17(Sun) 12:35 |   |  【コメント編集】

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 |  2013.02.17(Sun) 21:25 |   |  【コメント編集】

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