日々草子 入江法律事務所 3

入江法律事務所 3




入江法律事務所のただ一人の職員、相原琴子は都心から離れた住宅街にいた。
「あ、ここか。」
上司である入江直樹直筆の地図は、大抵の人間ならば「こんなに分かりやすい地図はない!」と絶賛するほどだというのに、それでも琴子は目的地へ到着するまで散々迷っていた。何人の人間に道を尋ねたか分からない。だが、ようやく辿り着くことができた。

そこは二階建てであった。といっても一階部分は事務所にあてられているようであった。
「こんにちは。」
琴子は事務所入り口のドアをそっと開け、声をかけた。
「はい、何か?」
現れたのは五十代の上品な女性であった。
「あの、私、入江法律事務所から来たのですが。」
「入江先生の所から!」
女性は顔を綻ばせ、
「先生、入江先生の事務所の方ですよ!」
と奥へ向かって声をかけた。



「宅配で済むのに、わざわざ来てもらってしまい、すまなかったね。」
「いえ、とんでもないです。」
琴子が話している相手は、白壁という五十代の弁護士であった。白壁は直樹がかつて所属していた大事務所のパートナーだった人物であった。
「入江先生は元気かい?」
「はい。白壁先生にお会いしたいと申しておりました。」
「そうかあ。彼が辞めたって聞いた時は驚いたけれどねえ。」
直樹の話によると、パートナー時代の白壁はそれはもうやり手で、琴子ですら耳にしたことがある企業がらみの大事件などをいくつも解決してきた弁護士だという。さぞいかつい近寄りがたい人間かと緊張していた琴子だったが、こうして会ってみると全然そんなことを感じさせない男であった。

「本なんて宅配で返してもらえばいいのに、あなたが入江先生の様子を知りたいからって無理を言うから。」
お茶を運んできたのは、先程琴子を迎えてくれた女性であった。この女性は白壁の妻である。
「遠い所をごめんなさいね。」
「いえ、とんでもないです。」
「入江先生はどう?優しい上司かな?」
「ええと…。」
白壁の質問に答えようとした琴子であったが、「ばかやろう」「この間抜け」「さっさとしろ」と罵声を浴びせられたことしか浮かんでこない。
「…。」
「いや、いいんだ。うん、入江先生はほら、自分にも厳しい人だったから。」
どこか遠くを見つめる琴子の顔に、白壁は自分が答えに困る質問をしたことに気づいたのであった。



「ただ今戻りました!」
「お疲れ。白壁先生はお元気だったか?」
「はい、先生によろしくって。」
事務所へ戻り琴子は直樹に報告する。

「先生、私が留守の間大変だったんじゃありませんか?」
一人しかいない職員が半日留守だったのである。さぞ直樹が困ったことだろうと琴子は心配していた。
「いや、全然。」
直樹からはあっさりとした返事が来る。
「むしろいつもより仕事がはかどっていたが。」
「あ、そうですか。」
がっくりと肩を落とす琴子であるが、すぐに立ち直るのも琴子の取柄である。

「それにしても、ご自宅で開業なんてすごいですよねえ。」
唯一の仕事と言っても過言ではないコーヒーを淹れながら、琴子は白壁法律事務所の様子を思い出していた。
「そうだなあ。まだこれから活躍って時に突然あそこを辞めて自宅開業、地域のために働くと言った時はみんな止めたもんだけど。」
「でも素敵ですよね…。」
直樹の机にコーヒーを置いた後、お盆を抱きしめながら琴子はうっとりと宙を見つめた。

「職員は奥様で、一階が事務所で二階が住居。なんかそういうのっていいなあ…。」
そして琴子は直樹をチラリと見た。
「何だよ?」
「いえ…。」
琴子は想像の世界へと羽ばたき始めた。

――“あなた、書面完成しました”と私が先生に言ったら、先生は“こら、あなたじゃないだろ”って小突いたりして。“ここは事務所なんだから”って言われて“はあい”って私が謝って。そしたら先生がそっと“あなたって呼ぶのは夜な”なあんて…。

「きゃあ!!」
思わず自分の想像に興奮して琴子は悲鳴を上げてしまった。その突然の悲鳴に直樹はコーヒーを噴き出した。
「何だ、一体!ゴキブリか?」
「違いますよう!」
恥ずかしさを誤魔化す意味もこめ、琴子は「アハハ」と笑った。
「ったく、昼間から寝ぼけるな。」
「寝ぼけてませんってば。」

直樹に叱られたのに、琴子はまた想像の世界へと戻る。

「あ、でも待てよ。自宅開業となると先生のお家かあ。あそこの一階部分を改装して…うん、かなり広いから二階だけでみんな暮らせるわよね。」
そこまで考えた時、琴子はハッとなった。直樹が自分を睨んでいる。

「あ、あの…私、今声に出して…ましたよね?」
「お前ってすげえな。」
直樹はじっと琴子を見つめた。
「そんな間の抜けた顔をしているくせに、結構腹黒いんだな。」
「は、腹黒い?」
「うちを乗っ取ることを考えているとは。いやあ、まいった。」
「乗っ取る!?」
「今自分で言っただろうが。一階を改装して自分のもんにして後の人間は二階へ追いやるって。」
「いえ、そんな意味じゃないですよ!!」
琴子はブンブンと手を振った。
「フン、どうだか。」



その晩、琴子は入江家にいた。紀子がたまには夕食をと誘ってくれたのである。
「琴子ちゃん、いつも直樹が世話になっているねえ。」
紀子を手伝って夕食の支度をしている琴子に、重樹がニコニコと話しかけた。
「とんでもないです。」
「世話しているのはお兄ちゃんの方だろ。」
口を挟んできたのは、直樹の弟の裕樹である。直樹は裕樹と二人兄弟である。
「裕樹、今月分の領収書。」
直樹は事務所でためた領収書を裕樹へと渡した。
「OK。帳簿につけとくね。」
「いつも悪いな、大学生のお前にさせちゃって。」
「平気、色々勉強になるし。」
何と入江法律事務所の会計業務は裕樹の担当だったのである。

「先生、やっぱり私がやりますよ?」
キッチンからお玉を振りながら琴子がやってくる。
「お前に一度やらせたら、とんでもない金額になったんじゃねえか。」
直樹が睨むと「あら、そうでしたっけ?」とお玉を片手に「ホホホ」と琴子は笑ってごまかした。
直樹も帳簿つけはお手の物であるのだが、さすがに忙しくてそこまで時間をかけている暇はない。そこで裕樹がかって出たのである。
「おかげで僕、こないだ簿記一級に合格したよ。」
「すごいね、裕樹くん!」
琴子がパチパチと手を叩くと、
「お前にだけは言われたくないよ!」
と、裕樹も琴子を睨んだ。

「もう裕樹、琴子ちゃんをいじめないの!」
完成した料理を紀子が運んでくる。
「琴子ちゃんはいるだけでいいのよ。お兄ちゃん一人だけだったら事務所が殺風景でしょうがないじゃないの。」
「だったらもっと美人を雇うべきだと思うけれど。ね、お兄ちゃん?」
「そうだなあ。」
直樹が考え込むと、
「え?そんな…。」
と、琴子が青くなった。
「何を言ってるの!琴子ちゃんみたいにそこにいるだけで空気が明るくなる女の子、そんじょそこらにいるもんですか!」
琴子のことが大好きな紀子が息子たちを怒鳴りつけた。

「いや、こいつ結構腹黒いんだぜ。」
直樹が反論を開始した。その言葉に琴子はドキッとなった。
「先生、もしかして今日のあの話を…?」
「腹黒いわけないでしょ!どこを見たらそうなるっていうの?」
紀子が琴子を庇う。
「いや、だってさ。こいつ、うちの一階を改装して自分が居座って、俺たちを二階へ押しやるって計画立ててやがるんだから。」
「うわあ!なんだ、それ!」
裕樹が呆れた声を出した。
「琴子のくせに入江家乗っ取り計画立ててるのかよ?」
「違う、違うの!」
琴子は入江家の面々を見回した。
「そうですよ、琴子ちゃんがそんな怖いことを考えるわけないじゃないの。」
「そうだぞ、直樹。」
紀子の後に重樹が続いた。
「お前の勘違いだろ。」
「いいや、俺はこの耳でしかと聞いた。」
直樹は引かなかった。

「それは違うんです!」
琴子が顔を真っ赤にして弁明する。
「どう違うんだよ?え?」
裕樹が琴子に詰め寄る。
「説明しろよ、馬鹿琴子。」
「それは…。」
琴子はもじもじしながら、俯く。
「それは、何だ?」
裕樹の視線が痛い。
「それは…このお家の一階を事務所にして、二階を住居にしたら、先生も通勤が楽じゃないかなあっていう意味で言ったの…。」
本当はそこに自分も住みたいのであるが、それを打ち明けると直樹へのプロポーズのようになってしまう。間違いなく直樹は断るだろうし、家族全員の前でそんな目に遭ったら琴子はもうどうしていいか分からないので何とか誤魔化してみた。
だが、頭のよい入江家の面々には自分の気持ちがばれてしまったのではないだろうかと不安もある。

「それってもしかして…。」
紀子が呆気にとられた顔を見せた。
「もしや…。」
重樹も同様であった。
ああ、やはりばれてしまったのか。絶対に直樹は「誰がお前なんか選ぶか」といつもの調子で答えるだろう。せめて振られるにしてももっと美しい形で振られたかったと琴子は悔やんだ。

ところが。
「直樹、お前は事務所の家賃も困るほど仕事がないのか?」
重樹は琴子が全く予想もしていなかった質問を直樹へぶつけてきた。
「はい?」
今度は直樹がぽかんとしてしまった。
「そうよ。事務所の家賃代節約のために、琴子ちゃんに自宅開業を考えさせるまで困っているなんて!」
紀子もオロオロとしている。
「ちょっと待ってくれ。」
「なぜ早く言わないんだ。そこまで困っているなんて。」
「いや親父、ちょっと待って。」
「ああ、何て可哀想な琴子ちゃん。こんな甲斐性のない雇い主の下で働くからしなくていい苦労まですることになって。もしかしてお給料も何か月も滞納しているんじゃ…。」
「あ、あの、おばさん?」
紀子に体を抱きしめられ、琴子は目を白黒させた。

「お兄ちゃんの事務所は黒字だよ?」
裕樹が両親を落ち着かせようとした。
「そうだ、金に困ってはいない。こいつにだってちゃんと給料は払っている。」
直樹がムッとなって言い返した。
重樹と紀子は頭の回転は速いが、どうも勘違いしてしまったようだった。



「ったく、お前のせいでとんだ目に遭った。」
琴子を自宅まで送るよう両親に命じられた直樹は歩きながら文句を口にしていた。
「先生が変なことを言うからじゃないですか。」
「元はといえばお前のせいだ。」
怒られているものの、琴子は直樹と並んで歩けることが嬉しかった。家がもっと遠ければよかったのにと考えた途端、
「私の家が北海道だったら、もっと歩けたのになあ。」
という台詞がまたもや琴子の口から飛び出てきた。
「俺は北海道から東京までの通勤手当なんて出す気はないからな!」
「いや、そういう意味じゃなくて…まあいいや。」
こうして傍にいられる時間が長くなった分だけ、今日は琴子にとって幸せな日であった。

「そもそもどうして自宅開業なんてとんでもねえことを考えたんだ?」
直樹は琴子に訊ねた。
「あ、それはですね。白壁先生のお宅を見ていいなあと思って。」
「なるほど。」
「奥様がお手伝いして、なんかいい雰囲気だったんです。」
と答えてから琴子はまたもやハッとなった。これでは奥さんになりたいと主張しているようなものではないだろうか。

「まあ白壁先生のお宅は、近くに裁判所があるから開業できたもんだからな。」
「そうなんですか?」
どうやらばれていなかったらしい。琴子はホッとしながらも白壁の開業理由になるほどと感心した。
「うちは近くに裁判所がないから難しいだろうな。」
「そっかあ…。」
更に直樹は続ける。
「白壁先生の奥さん、ほんわかしていただろ?」
「はい!とても優しそうでおっとりとしていらして。なんか私と似ているなあって。」
琴子の話を聞き直樹が「プッ」と噴き出した。
「何がおかしいんです?」
琴子は直樹を睨んだ。
「自分と似ているとか言うからさ。」
「だってそんな感じの奥様でしたよ?」
琴子の言葉にまたもや直樹が「プッ」と噴き出す。
「だから何がおかしいんですか!」
顔を真っ赤にして怒りだす琴子に、直樹がニヤリとしながら言った。
「白壁先生の奥さんってさ、昔俺がいた事務所で超がつく有能な秘書だったんだって。」
「え?」
「当時はタイプで書類作っていたらしいんだけど、タイピストとしても優秀。英語もペラペラ。白壁先生と結婚が決まって退職するとなった時は事務所全員で引きとめたって人なんだぜ?」
「う、うそ…。」
そんなすごい女性だったとは。琴子は口をポカンと開いたままである。
「奥さんがそういう人だから、白壁先生も自宅開業できたんだよなあ。」
直樹は琴子の驚きを無視し、一人頷いている。

「お前は余計なことを考えず、そのバッグの中身をしっかりと勉強しろ。」
「え?先生、気づいていたんですか?」
琴子のバッグの中身には秘書検定のテキストが入っていた。
「頑張ります!先生のお役に立てるように!」
「いつ受かるか期待しないけど。」
「そんなあ。」
いつもの口の悪さであるが、内心直樹は自分のためにと琴子が努力をしていることが嬉しいのである。

「明日、寝坊するなよ。お前のコーヒーで俺の一日は始まるんだから。」
言った瞬間、直樹はしまったと思った。これではプロポーズをしているみたいではないか。
「はあい!」
しかし、琴子は全く気付いていないようである。
「ったく、鈍感で助かったよ。」
「へ?」
「何でもない、おやすみ。」
「お休みなさい、気を付けて!」
直樹は軽く片手をあげ、歩き出す。ふと振り返ると、琴子がぶんぶんと手を振っている。
「ったく、ガキだな、ありゃあ。」
クスッと笑うと、直樹は自宅へと足を速めたのだった。






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プロフィール

水玉

Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
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二次創作については、いわゆる原作の隙間をぬった作品もありますが、主人公以外のキャラクターをメインとしたものや オリジナルキャラクターが出てくるものもございます。

そして、原作と違った時代(平安や明治やその他の時代を舞台にしております)、異なる設定(主人公を医者と看護師じゃない職業にしております)で書いてあるものが多いですが、原作を冒涜しているつもりは全くございません。

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