日々草子 いとし、いとしと言う心 37

いとし、いとしと言う心 37





二人が再会して早一週間が過ぎようとしていた。
「素敵な所ねえ。」
二人はウンター・デン・リンデンを歩いていた。
周囲は当然、ドイツ人ばかり。連れ立って歩いている男女は腕を組んでいる者が多い。
しかし、琴子は直樹より少し離れたところを歩いていた。日本では人前で男女が腕を組むなど考えられないことであるから仕方がない。
だがドイツ生活が長くなりつつある直樹には、それが物足りなく感じられていた。

「ねえ、あっちに行ってみてもいい?」
指さしてはしゃぐ琴子。
「いいけど。」
「うふっ。」
自分の気持ちを知らない琴子が憎たらしい。

「なあ。」
「なあに?」
「もっとこっちに近寄らないと危ないぜ?」
「え?だって車だってそんなに多くないわよ?」
道路が狭いならいざ知らず、皆ゆったりと歩いている。
「馬鹿だな、ったく。」
直樹は肩を竦めて見せた。
「いいか?ドイツは戦争に負けて多額の賠償金を背負わされて国全体がヒーヒー言っているんだ。」
それは琴子も知っていることだった。直樹やエリヴィーネと一緒にいると忘れがちであるが、少し路地に入ると人々が貧困にあえいでいる様子を目にする。
「それと近寄ることとどう関係が?」
「ちょっと身なりのいい奴が歩いていたら、さらわれるぞ。」
「え?」
「それが女なら尚更。お前みたいな奴でも男よりましだと今にもサーッと…。」
「やだ、やだ!!」
直樹の言い方があまりにおどろおどろしかったせいで、すっかり震え上がった琴子は直樹の腕を掴んだ。
「嫌ならしっかりつかんでろ。」
「はあい。」
直樹に言われるがまま、琴子はしっかりと直樹の腕をつかむ。
「いや、そんなんじゃドイツの大男なんてあっという間に引きはがすな。」
「え?そんなの怖い!」
琴子はぎゅうっと直樹の腕にしがみついた。
――よし、よし。
見事作戦が成功した直樹は琴子に見えぬよう笑みを浮かべた。

「…また見てる。」
「え?」
「さっきから、髪の毛の長い人が通ると目で追いかけているの。」
「俺が?」
「そう。」
琴子の頬が膨らんでいる。

「それは、癖だ。」
「癖?女の人を見る癖ってちょっと…。」
眉を潜める琴子に、直樹がクスッと笑った。
「いや、そういう意味じゃなくて。」
「じゃあどういう意味?」
「…長い髪を見ると、お前かと目で追いかける癖がついちゃったんだよ。」
ここは日本じゃないから、歩いている人間も当然外国人である。琴子とは背丈も全然違うのに、なぜか髪が長い女性を見ると思わずハッとなってしまう癖がついてしまった。
髪の長い女性を意識するがゆえに、エリヴィーネとも知り合うことになったと直樹は素直に琴子に打ち明けた。
「離れたら忘れるどころか、どんどん存在が大きくなっていくもんだな。」
「うん…。」
直樹の言葉に琴子は頷いたのだった。



『コトコのことは大好きよ。でもね。』
エリヴィーネはテーブルに肘をつき、ため息をついた。
『…その料理だけは食べる勇気がないわ。』
直樹が口にしている得体のしれない黒い物体にエリヴィーネは苦笑した。
『これでも大分ましになった方だけどな。』
二人がドイツ語で会話を交わしているところに、糊のきいた真っ白いエプロンをバサバサさせながら、琴子がやってきた。

「エリヴィーネ、いらっしゃい。」
今ではすっかり二人は友達である。
「ちょっと待っていてね。お洗濯物を干してくるから。」
洗濯物を抱え、琴子はまた消えた。

『コトコはあなたのお世話をすることがとても嬉しいのね。』
『そう?』
最後の黒い物体(ちなみにこれは卵焼きであった)を食べて直樹は聞き返す。
『ええ。あんなに幸せそう。』
『一時、俺はそれが辛くてたまらなかったんだけど。』
お嬢様育ちの琴子に家のことをあれこれとやらせることが辛くて、直樹は別れを選択したのだった。
『それはあなたの思い込みね。女心が分かっていないんだわ。コトコはね、あなたの傍にいるだけで幸せなの。お金も名誉も何も必要ないのよ。』
エリヴィーネの指摘も、今の直樹は素直に受け入れることができた。離れることはもうたくさんである。

「お待たせ!」
エプロン姿のまま、琴子は二人の傍に座った。
「コトコ、写真持って来たわ。」
「わあ、藤代さんの写真ね!」
藤代というのが、エリヴィーネの恋人の名前であった。学部こそ違えど直樹と同じ東京帝大の文学部の学生とのことである。
「文学を志す方だから、きっと繊細な美しい顔立ちなんでしょうね…。」
「単純な奴。」
そう突っ込む直樹も藤代の顔を見たことはない。
直樹と琴子は写真を覗き込んだ。

「…これまたいい体してるな。」
直樹がそう言うのも無理はなかった。藤代という男は琴子の想像とは全くかけ離れた、かなりの巨体であった。

「どう、コトコ?カオルもなかなかの男前でしょう?」
自慢げなエリヴィーネを前に、琴子は返事に困った。
藤代馨というその名前から、はかなげな美男子を思い浮かべていた琴子である。
体は別として、どこか褒めるところをと目を皿のようにして探す。しかしこの写真の藤代の顔はほとんど髭で覆われており表情すら読み取れないのであった。

「ええと…小豆のような可愛らしい目ね。」
唯一表に出ていた目を琴子は褒めた。
「アズキ?それは日本語で褒めているの?」
「勿論!アズキのような目というのはとてもいい言葉なのよ。」
「…嘘つけ。」
琴子は直樹の腕を肘でつきながら、写真をひっくり返した。

「あら、これはなあに?」
写真の裏には、おそらくエリヴィーネの書いたものだろう。金釘流の平仮名が書かれていた。
「いとし、いとしというこころ…?」
「ああ、それはナオキの真似をしたのよ。」
「直樹さんの真似?」
「そう、直樹も写真の裏に書いていたから。」
「写真?」
琴子の横で直樹は顔色を変えた。

「意味を教えてと言ったのだけれど、もっと日本語が書けるようにならないとだめだってナオキが言うから。」
「エリヴィーネ、今日は出かける予定があるのでは?」
直樹がエリヴィーネを追い出しにかかる。
「あら、そうだったわ。」
時計を見てエリヴィーネは慌ただしく出て行ってしまった。



「写真って?」
二人きりになった後、琴子が直樹に訊ねた。
「大したものじゃないよ。」
直樹は適当に流そうとしたが、琴子は騙されなかった。
「嘘。あんな言葉を書くくらいだもの。」
持ち歩く写真というと、ブロマイドを琴子は浮かべた。だが琴子の記憶の中の直樹はブロマイドを買うほど好きな女優はいなかったと思う。
だとすると、沙穂子だろうか。
もしかしたら直樹は、沙穂子のことが忘れられないのではないだろうか。自分に優しくしているのはドイツまではるばるやって来たことへの思いやりだけではと疑ってしまう。

「ったく、余計なおしゃべりをするから…。」
エリヴィーネを恨みながら、直樹はポケットに手を入れた。琴子に泣かれるのはこたえる。
「ほら。」
直樹は中から出した物を琴子へ突き付けた。
「これって…。」
それは見覚えのあるハンカチであった。
「確か、あの日私が刺繍をしていたハンカチ…。」
あの時は大騒ぎであったので、あのままどこかへ消えたと思っていたハンカチをまさか直樹が持っているとは。
琴子はそっとハンカチを広げた。

「嘘…。」
ハンカチの中から現れたのは、雑誌の切り抜き写真であった。そしてそれは自分の姿。
入江家に嫁いだばかりの頃、取材を受けたあの時が琴子の中で鮮やかに蘇る。
「お前の写真、それくらいしかなかったから。」
憮然として答える直樹を前に、やはり琴子の目から涙が溢れ出した。
琴子は写真をひっくり返した。

『いとし、いとしと言う心』

漢字交じりで、直樹の文字がそこに書かれていた。

「あの…。」
琴子は遠慮がちに直樹を見た。
「何だよ?」
照れもあり直樹は相変わらずふてくされている。
「その…呆れると思うのだけれど。」
「散々呆れてきたから、今更何が起きても平気だけど?」
「ええと…。」
なかなか切り出さない琴子に、直樹は苛立ちを露わにした。
「何だよ、さっさと言え。」
「私、日本人ですが…この言葉の意味が分かりません。」
とても恥ずかしそうに琴子は呟いた。
「愛しい愛しいと思う心っていう意味の他に、何かあるの?」
直樹は無言であった。
さすがに呆れて何も言えないのかと、琴子は落ち込みかける。

直樹は手を伸ばし、メモ用紙とペンを取った。
「いいか、よく見てろよ。」
どうやら説明してくれるらしい。琴子は直樹の手元を覗き込んだ。

「まず“糸”…これと“いとし”をかける。」
直樹はメモ用紙に『糸』と書いた。
「もう一つ、“糸”。“いとし、いとし”だから“糸”は二つ。」
『糸』という字を、最初に書いた『糸』から少し離して並べて直樹は書いた。
「…“言う”。」
二つの『糸』の間に『言』と直樹は書く。
「最後が“心”。」
三つの文字の下に直樹は『心』と書いた。

直樹はペンで指しながら、
「いとし(糸)、いとし(糸)と言う心。」
と説明をする。
「で、分かるだろ?」
「…戀。」
琴子が呟いた通り、完成した文字は「戀」-恋である。

「いとし、いとしと言う心、それは戀(恋)。」
直樹はペンを放り投げると、自室へと入ってしまった。

「いとし、いとしという心…戀。」
琴子は直樹の文字を見つめ、何度も何度も呟いた。その顔は喜びにあふれていた。



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Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
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そして、原作と違った時代(平安や明治やその他の時代を舞台にしております)、異なる設定(主人公を医者と看護師じゃない職業にしております)で書いてあるものが多いですが、原作を冒涜しているつもりは全くございません。

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