日々草子 いとし、いとしと言う心 32

2012.11.10 (Sat)

いとし、いとしと言う心 32


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横浜港は出発する人間、それを見送る人間と大勢の人で今日も賑わっていた。
そんな賑わいの様子を直樹は一人立って眺めていた。



************

「ドイツって、突然じゃないか。」
それを聞いた時の重雄の顔は真っ青であった。
「なぜそんな…。」
「父の会社が、俺のせいで苦境に陥ってしまったのです。」
直樹は伏し目がちに話す。
「原因を作った俺が表に立って手伝うわけにはいきません。」
「だからなぜ君が日本を離れる必要が?」
「このまま実家にいると親父たちが白い目で見られるでしょう。せめて家を離れれば少しはましになるかと。」
「しかしドイツとは遠すぎやしないだろうか。」
「医学部に編入した時より、教授方から留学は勧められてはいたのです。父にまだ編入を打ち明けていなかったこともあり断っていました。でも今回のことでちょうどいい機会だと思いました。」
「イリちゃんの許しは?」
「最初は猛反対でしたが、折れてくれました。あれだけ反対を押し切って医学の道を志したのです。海外で学んで優秀な医者になって帰ってくることが俺にできるせめてもの親孝行かと。」
「そうか。」
直樹も何日も考えた結論であった。こんな状況の中一人家を離れることは心苦しい。だが自分が家族の傍にいては迷惑がかかるだけである。
騒動を起こした本人がいなくなれば、風当りも弱くなるのではないかと直樹は考え、留学を決意したのであった。

「申し訳ありません、義父上。」
直樹はここで重雄に頭を下げた。
「…琴子のことか。」
重雄は直樹が何を謝ろうとしているのか、すぐに分かった。
「琴子を幸せにすることはもはや…夢のような話となってしまいました。俺は琴子を傷つけたまま、日本から逃げることになってしまいました。」
琴子は直樹が沙穂子の元へ戻ったと思い込んだまま、軽井沢へ出かけてしまった。今となってはそれでよかったのかもしれない。

「…琴子に君がドイツへ行くことを話してもいいのかね?」
「言わないで下さい。」
直樹はこの日、初めて口元に笑みを浮かべた。
「琴子は俺に捨てられたと思っているはずです。それでいいです。いつか俺のことを忘れてくれればいいのです。」
何年ドイツにいるか直樹は決めていなかった。重樹の会社が元に戻るまでは帰国するつもりはない。それがどのくらいになるか見当もつかない。たとえ会社が建て直されたとしても、帰国するかどうかも分からなかった。



************



少し早いが船室へ向かおうと思った。特にやることもないし、甲板に出て別れを惜しむような見送りの人間も自分にはいない。そう思い、船へ向かおうとした時であった。
「直樹さん…!」
聞き終え覚えのある声に直樹は驚き振り返った。
そこには、息を切らした琴子が自分を見つめていた。

「義父上から聞いたのか。」
直樹の問いかけに、琴子はコクンと頷くと船に目をやった。
「ドイツまでどのくらいかかるの?」
「…一か月半。」
「そう。遠いのね。」
何か拍子抜けしてしまうような質問だなと、直樹は思った。

「…待っていてもいい?」
琴子が直樹を見つめた。そのこぼれんばかりの大きな目を見ていると直樹は吸い込まれそうだった。
「直樹さんがドイツから戻るまで、待っていてもいい?」
ドイツへ行く理由も重雄が説明したに違いない。それでも自分を待っていてくれると琴子は言っている。
どれほどその言葉を待っていたことか。しかし今の直樹はそれを受け入れることはできない。

「…初めて写真を見た時から、俺はお前に魅かれていたんだと思う。」
琴子の問いの答えに全くなっていないことを直樹は口にした。しかしそれでも琴子は直樹を追いつめたりしなかった。
「数ある見合い写真、どれも同じ澄ました顔。こいつらは楽しい時は楽しい、悲しい時は悲しいと思う生き物なのかと思っていた俺の前に、お前の写真が置かれた。お前はそれまでの写真とは全然違う顔をしていた。笑っていた。」
「どうせヘラヘラしていたって馬鹿にしていたんでしょう。」
直樹がなぜそのような話を始めたのかも琴子は訊ねなかった。
「違うよ。」
直樹はクスッと笑った。
「それを見た時、こいつと結婚したら面白い人生を送れるかもしれないと思ったんだ。見合いでは両親がうるさいからとか言ったけど、本心はそれだった。だけどあの時の俺はそんなこと言えなかった。」
あれから一年も経っていないというのに、何年も前のような気がする。
「俺の予想通り、お前はとんでもない奴だった。俺をひっぱたく、つねる。」
「それは直樹さんが意地悪ばかり言ったからでしょう。」
琴子が頬を膨らます。
「まあな。だから今、後悔している。」
直樹は琴子の頬に手を添えた。琴子の頬も膨らむことをやめる。

「あの時もっと優しくしておけばよかった、意地悪なんて言わなければよかったって。」
「直樹さん…。」
「俺は写真で見た時から、お前の笑顔が好きだった。お前にはいつも笑っていてほしかった。笑顔を絶やさないように俺は幸せにしようと思っていた。それなのに、ほとんど苦労をかけてばかりだった。俺は結局、お前から笑顔を奪ってしまった。」
「そんな…そんなこと…。」
琴子は首を何度も横に振った。その度に髪が揺れる。直樹はその髪に触れたい衝動を必死で堪える。
「いつも傷つけてばかりで悪かった。本当にごめん。」
「そんなことない…そんなことない…。」
琴子は否定する。

「俺のような男じゃなく、もっと優しく頼りがいのある男の方がお前を幸せにできるんだ。」
「そんなことないっ!」
琴子がとうとう泣き出した。
「何で?何でそんなこと言うの?私はいつだって…。」

出航の時間が近づいている。見送りの人と別れ、どんどん乗客が船の中へと入っていく。

「俺はお前のことが好きだ。だからお前には幸せになってほしい。ずっと俺の好きな笑顔を浮かべて暮らしてほしい。」
「だったら私は!」
「俺ではお前を幸せにできないんだ。」
涙をこぼし自分を見つめる琴子。直樹も涙を必死で堪えている。このまま連れ去ることができたらどんなにいいか。しかしそんなことはできない。連れ去っても幸せにできるかどうか未来が見えない。

「俺を愛してくれるのならば、俺の頼みを聞いてほしい。」
直樹は琴子の肩に手を置いた。
「頼み…?」
流れる涙をぬぐうこともせず、琴子は直樹を見つめている。
「俺を早く忘れて、幸せになってくれ。自分を大切にしてくれ。琴子を心から愛し、優しく見守ってくれる男と幸せになってほしい。それが俺の願いだ。」
「嫌よ、絶対嫌!!」
駄々っ子のように琴子は首を大きく横に振って叫んだ。
「私は直樹さんを待っている!何年でも待っている!」
「だめだ!!」
怒鳴る直樹に、琴子はビクッと体を震わせた。

「だったら…。」
直樹に怒鳴られても、琴子は怯まなかった。
「だったら、一人でいるわ。これから先、一生一人で暮らす!」
「それはだめだ。」
直樹は今度は怒鳴らなかった。静かに、幼子を諭すような言い方であった。
「今は不器用で勉強も苦手なお前が一人で生きていけるような世の中ではない。だけど。」
直樹はそこでいったん口を止め間を置いた。

「俺よりもお前を幸せにしてくれる男が絶対いる。いつか必ず見つかる。」
「それじゃあ…それじゃあ直樹さんは?」
琴子は震える声で訊ねた。
「直樹さんもいつか…いつか誰かと?」

琴子が直樹の答えを待とうとした時、

ボーッ!!

汽笛が鳴り響いた。出航の合図である。

震える琴子の肩を直樹は抱き寄せ、その唇に口づけを落とす。
そして直樹は琴子の体を突き離した。

「直樹さん!!」
琴子の呼ぶ声が背中に響く。直樹は振り返りたい気持ちを堪え、船の中へ進んだ。
船に乗るとすぐに、外から見えない位置にしゃがみ込む。目から涙があふれる。
待っていてくれと口にできたらどんなにいいだろうか。しかし帰国がいつになるかもわからない身の上ではそのようなこと言えない。

「直樹さん、直樹さん!!」
姿が見えなくなっても、琴子は直樹の名を呼び続けた。涙を流し、声が出る限り名を呼び続ける。

甲板の乗客から、見送りの人々へ紙テープが投げ込まれる。色とりどりの紙テープの中、琴子は直樹の名前を呼び続けた。

やがて船は静かに港を離れる。

「直樹さん!!」
琴子は船が見えなくなるまで叫び続けた。しかしその声はもう直樹には届いていない。



海に出て、客も船室へと戻る頃になっても直樹はそのまましゃがみ込んでいた。
船員が気分でも悪いのかと心配したが、直樹は「大丈夫」とだけ答えた。
そして誰もいなくなった場所で、直樹は懐に手をやった。取り出したのは…。

―― これをお返しいたします。
釈放された日、沙穂子が返してくれたものであった。
―― 直樹様が落とされたことは存じておりましたが、お返しするのが辛かったのです。いつか、私の写真をこのように持ち歩いて下さったらと願っておりましたが…かなわぬ夢でした。
寂しそうに微笑む沙穂子を、直樹は責める気持ちになれなかった。



不器用にほどこされた『N』の刺繍がされたハンカチ。それは二人で暮らしていた頃、琴子が直樹のためにとせっせと針を運んでいた物であった。直樹はそれをそっと開いた。
『入江侯爵令息直樹氏夫人琴子の君』という文字と共に、琴子が微笑んでいる写真がそこにあった。それは結婚したばかりの頃、取材された雑誌に掲載された写真であった。
切り抜きなので折れぬよう、皺が寄らぬようにと厚紙を台紙として貼っている。直樹はそれを肌身離さず持ち歩いていたのだった。

この写真もやがて色あせるだろう。その時自分たちはどうなっているのか。
汐の香りと波の音に包まれながら写真を見つめ、直樹は言いたかった言葉を呟いた。

「俺の妻はお前だけだ、琴子…これから先もずっと。」




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 |  2012.11.10(Sat) 00:26 |   |  【コメント編集】

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 |  2012.11.10(Sat) 00:33 |   |  【コメント編集】

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 |  2012.11.10(Sat) 00:35 |   |  【コメント編集】

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 |  2012.11.10(Sat) 07:14 |   |  【コメント編集】

信じています。必ずHAPPYENDになる事を・・・・
kazigon |  2012.11.10(Sat) 10:54 |  URL |  【コメント編集】

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 |  2012.11.10(Sat) 14:14 |   |  【コメント編集】

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 |  2012.11.10(Sat) 15:56 |   |  【コメント編集】

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 |  2012.11.10(Sat) 16:19 |   |  【コメント編集】

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 |  2012.11.10(Sat) 17:08 |   |  【コメント編集】

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 |  2012.11.10(Sat) 18:10 |   |  【コメント編集】

まさか…

えぇーっ!!またまた 二人に試練が……まさか このまま ふたりがおじいさんとおばあさんになったりしませんよね?Σ( ̄□ ̄)!(笑)
ぷりん |  2012.11.10(Sat) 18:23 |  URL |  【コメント編集】

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 |  2012.11.10(Sat) 18:58 |   |  【コメント編集】

水玉さん、涙が止まりません!!
直樹さんがこっそりとキスしていたころが懐かしい。
お互い気持ちを打ち明けたというのに・・・・・
とにかく直樹さん、いっぱいいっぱいお勉強してください!!
恥ずかしくない男になってください!
で、琴子ちゃんとこれからどうなっていくのだろう???
琴子ちゃん!!頑張れ!!!
必ず幸せになると信じてる!!!
ゆみのすけ |  2012.11.10(Sat) 22:52 |  URL |  【コメント編集】

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 |  2012.11.10(Sat) 23:49 |   |  【コメント編集】

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 |  2012.11.11(Sun) 14:02 |   |  【コメント編集】

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