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2012.11.07 (Wed)

いとし、いとしと言う心 30

お嬢の登場に身もだえる方、お怒りになる方、コメントありがとうございました!
ああ…『君の名は』のようにUPされたら銭湯いやお風呂から皆さんが上がってくるようなお話が書けたら!






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懐かしい入江邸は少しも変わっていなかった。
「直樹さん!」
「兄様!」
直樹の姿を見るなり、紀子と裕樹が駆け寄ってきた。
「まあまあ、少し痩せたんじゃなくて?」
「警察の飯はうまくありませんでしたから。」
おいおいと泣く紀子の姿に、直樹は親不孝をした痛みを感じずにいられなかった。

「入江、出所おめでとう!」
ふざけた調子で迎えてくれたのは渡辺だった。直樹の戻りを今か今かと入江家で待っていたのである。
「心配かけて悪かった。」
「いやいや、とにかく無事で何よりだよ。」
直樹の背中を叩きながら、渡辺は「あれ?」と首を動かした。
「琴子ちゃんは?」
「琴子?」
懐かしいその名前に直樹の心臓が高鳴る。
「琴子が来ているのか?」
直樹も部屋を見回す。が、その姿は見当たらない。

「いや、お前を迎えに行くって言ってたはずなんだけど…会わなかったのか?」
「いや…?」
もしかして行き違いになったのかと直樹は考えた。警察を出てすぐに沙穂子と会い車に乗り込んでしまったのである。もしやそこを琴子が目撃したのか?
もっとも、琴子が誤解するようなことは起きなかったのだが。

************

沙穂子が警察に来たのは、こうでもしないと直樹と今後会えないからと考えたからであった。
「大泉家にもやはり?」
とりあえず、二人が入ったのは個室のあるレストランであった。
直樹が訊ねると沙穂子は頷いた。
「ご迷惑をかけてすみませんでした。」
いずれお詫びに行かねばと思うが、追い返される気がする。
「祖父も私も、直樹様がそのような恐ろしいことをする方ではないと信じております。それは今も変わっておりません。」
大泉翁も何かの間違いに違いないと何度も言ったのだという。そして直樹が使っていた部屋を特高が探そうとした時、大泉翁は一喝して追い払ったのだと沙穂子は話した。
「大泉家は政界にもつながりがございますから。政治家の方からも当家に立ち入ることをしないようにと言っていただいたようです。」
「そうでしたか。」
「ですが…。」
いくら大泉翁と沙穂子が直樹の無実を信じても、周囲はそうは見なかったのだという。
「当家とお付き合いのある方や取引先などが心配をしまして…その…。」
「つまり、一度でも政治犯と疑われた男と大泉家の大事な孫娘を結婚させるなんてとんでもないという声が日増しに大きくなったということですね。」
沙穂子が言いにくかったことを直樹はズバリと言い当てた。沙穂子は小さく頷いた。

それはもっともなことだろう。直樹は大泉家にそのような注進をした人間を恨むつもりは全くない。実業界でその名をとどろかせる大泉家を心配する気持ちは直樹だって理解できた。

「縁談は白紙になったということですね。」
「…はい。」
沙穂子はこらえきれずハンカチを目に当てた。しかし直樹は沙穂子には申し訳ないが、さほど悲しみはなかった。ただ散々世話になって、後ろ足で砂をかけるような真似をすることだけは申し訳ないと思う。
「このような状況ですので、どうぞ当家のことはお気になさらないでくださいましね。」
それは遠まわしに大泉家に来るなという意味であった。
当然、沙穂子が入江家を訪問することも許されないだろう。どこからか釈放の日時を聞いて、こうして足を運んできたに違いない。

「ですが、このようなことが起きなくても…。」
沙穂子はハンカチを握りしめた。
「私と直樹様が結婚することはなかったような気がいたします。」
そして沙穂子は寂しげに笑った。
「直樹様のお心には、今でも前の奥様がおいでですものね。」
直樹は返せる言葉がなかった。その直樹を見て沙穂子は唇をかみしめる。
「いつか私が代わることができればと、それだけを考えてまいりました。だから直樹様が逮捕されたと聞いた時も、私…警察へ足を運んだのです。」
「沙穂子さんが?」
これには直樹も驚いた。
「はい。いてもたってもいられなくて、祖父の目を盗んで。ですがいざ警察を前にすると恐ろしくて立ちすくんでしまいました。」
「誰でもそうですよ。」
直樹は沙穂子の感じた気持ちはもっともなことだと思う。
「いいえ、直樹様。」
しかし沙穂子は強い口調でそれを否定した。

「私、見たのです。」
「何をでしょう?」
「直樹様の前の奥様と思われる方が、警察へいらっしゃいました。」
沙穂子はそこで見た女性の姿かたちを直樹に話した。髪の長い若い女性だと聞き、直樹は琴子だとすぐに分かった。
「その方は中に一歩も入れていただけませんでした。警察の方が怖い顔をして怒鳴りながら突き飛ばしておりました。私、怖くて何もできずに物陰で震えておりました。」
沙穂子が恐ろしさで震えていたことなど、直樹にはどうでもよかった。それより琴子がそんなひどい目に遭っていたとは知らなかった。そちらの方がずっと直樹にはショックであった。

「次の日は祖父がいたので屋敷を出られませんでした。その代りこっそりと女中を警察の前まで見にやらせました。やはり奥様はいらしていたそうです。この日もまた怒鳴られて追い払われていたと。」
やはり琴子は心配して来てくれていたのだ。直樹は今すぐ琴子の元へ駆けつけたかった。

「何もできずに見るだけで戻ってきた私と奥様を比べると…勝負は目に見えております。いえ勝負にもなりません。」
沙穂子は敗北を認めた。
「もし私の中に、奥様の強さのほんの僅かなものがあったら…立ち向かうこともできたかもしれませんわね。」
沙穂子はまたハンカチを目に当てたのだった。

違う、と直樹は叫びたかった。
琴子は常に強いわけではない。琴子は他人のために強くなる女なのである。それは直樹が一番よく知っていた。
それに琴子を強くさせてしまうのは自分のせいであることも直樹は分かっている。本当ならば自分が守らねばならない存在なのに…。


************

紀子も琴子が一緒だと思い込んでいたのだという。
「きっと遠慮したのかもしれないな。離縁された以上、出しゃばることを控えたのかもしれない。」
渡辺が琴子を気遣った。
「とにかく、琴子ちゃんのおかげでお前は釈放されたんだから。」
「琴子のおかげ?」
「ああ。」
そこで直樹は初めて、自分の釈放に力を貸してくれた将校が琴子の女学院の恩師のつてであったこと、琴子が毎日警察まで面会を求めに来たことを知ったのだった。



重樹はこの場にいなかった。いつものように仕事に出かけていたのである。
帰宅後、直樹は重樹と久しぶりの対面を果たした。

「ご迷惑、ご心配をおかけしました。」
そして弁護士の派遣について、直樹は重樹に礼を述べた。
「…元気そうで何よりだ。」
重樹の顔に笑みは浮かんでいなかったが、その目は父親が息子を気遣うそのものであった。
「まずは世話になった方々へ挨拶をするように、明日にでも。」
「はい。」
色々あったが、この逮捕騒動で勘当も解かれそうな気配である。それだけが救いであった。



翌日、直樹は琴子の恩師松下と市塚少将の元へ出向いた。
二人とも、自分たちよりもとにかく琴子の元へ急ぐようにと言ってくれた。
直樹はその足で相原家へと向かった。
相原家に到着すると直樹は、表の門ではなく裏口へと回った。釈放されたばかりであり、もしかしたら相原家でも大泉家同様、周囲から責められている可能性があると思ったのである。そのうちの誰かに自分の姿を見られて騒がれたら重雄と琴子に迷惑が掛かってしまうと直樹は考えたのだった。

「そんな気遣い、無用なのに。」
直樹の無事な姿、そして裏から回ったことを知り重雄は笑った。
「無事でよかった、イリちゃんも奥方も喜ばれただろう。」
「はい。義父上にも色々としていただいたようで本当にありがとうございました。」
重雄も水面下で色々と動いてくれていたことは、重樹から聞かされていた。火の粉が降りかからぬようにと相原家との交流は途絶えたままであったが、お互い気遣っていたのである。

「いやいや。君が無実であることは分かっていたからね。」
「俺のことで何かご迷惑は?」
「大丈夫だよ。」
重雄の直樹に対する態度は全く変わっていなかった。それが直樹には嬉しい。
「琴子が本当によくしてくれたみたいで。」
「ああ、色々とがんばっていたようだ。」
一番の功労者である琴子に礼を述べたいのだが、その姿が見当たらない。重雄が琴子を呼びに行かせる気配もなかったことが直樹は不思議であった。

「琴子だが。」
直樹がその姿を探している様子に重雄は目を止めた。
「今朝早くに軽井沢へ向かったよ。」
「軽井沢に?」
「ああ。かねてより女学院時代の友人の別荘に招かれていてね。突然出かけてくるといって。」
「突然」という部分を重雄は意識的に強調しているようであった。

「直樹くん。」
なぜ突然、しかも今日軽井沢へ出かけてしまったのだろうかと疑問に思っていた直樹は顔を上げた。
「君はこの間、琴子とやり直したいと言った記憶があるのだが。」
つい先ほどまで無事の姿を喜んでくれた笑顔は、重雄から消えていた。
「はい、間違っていません。」
このような重雄は初めてだと思いながら、直樹は緊張して答えた。
「ではなぜ、琴子は昨日一人で泣きながら帰ってきたのか説明がほしい。」
やはりそうだったかと、直樹は気づいた。やはり琴子は昨日迎えに来て、自分と沙穂子が共にいるところを目撃し誤解してしまったに違いない。
「琴子は自分が勘違いをしていたと言うばかりで、話にならなかった。そして昨夜友人に一人で連絡を取って軽井沢へ出かけてしまったのだ。わしも気分転換になるならと送り出した。」
「大泉家とのことはきちんと話がつきました。」
直樹はまずそう答えた。
「昨日沙穂子さん、大泉家のお孫さんが俺の元に来たところを琴子は見たのだと思います。ですがそれは琴子の考えていることとは違います。沙穂子さんは大泉家に近寄らないでほしいということを伝えに来たのです。」
「…成程ね。」
重雄は腕を組み天を仰いだ。直樹の言葉を信じていいかどうか迷っているのかもしれない。
「確かにそういう結論が出るのは無理もないかもしれない。大泉家ほど手広く事業を行っている家であれば周囲がとやかくわめきたてるだろうから。」
「はい。ですから俺も納得しています。」
「そうか…。」
「はい。それも琴子に今日説明したいと考えていました。」
しかし、肝心の琴子が留守であった。

「君の言い分は分かった。だが、琴子とやり直す件はしばらく待ってほしい。」
重雄は直樹に告げた。
「それは…覚悟していました。」
大泉家同様、相原家でもやはり直樹と琴子の再縁は異論が出ていてもおかしくない。
「いや、勘違いしないでくれ。うちは君と琴子についてうるさく言う人間は誰もいない。親戚もおっとりしている者が多いため、神経質になる人間もいない。そこは安心してほしい。」
「では、なぜでしょうか?」
ある程度ほとぼりが冷めてからではないと話を進めることは無理だと直樹も考えてはいた。しかしそれは世間体が問題になるからだと思っていたのだが。
「琴子の気持ちを尊重してほしいんだ。」
重雄が娘を思う父親の顔になった。
「君のような優秀な男には確かに物足りない娘であることは、重々承知している。勉強も苦手だし手先も不器用だ。良妻賢母になるかと聞かれたら親のわしも首を傾げる娘だ。」
「そんな…。」
「だがな、琴子は明るく素直で心優しい娘だと思う。親の欲目と君は笑うだろうが、わしにとってはそういう娘なんだ。その琴子が嫁ぎ先で不手際があったわけではないのに、突然離縁された。それでも周囲を気遣って望まぬ再縁先を求めて…。どうして琴子がここまで苦労しなければならないのだと、正直わしは思わずにいられない。」
重雄は直樹を責めているわけではない。

「親としてはもう、これ以上苦しんでほしくないのだ。琴子にはゆっくりとしばらく過ごしてほしい。世間体も何もかも忘れ、穏やかに日々を過ごしてほしい。」
「つまり、琴子を振り回すなということですね?」
少し間を置いて、重雄は頷いた。
「勿論、琴子が君を今でも愛していることは知っている。だからあの時、君がやり直したいと言ってくれた時は心底喜んだ。だが昨日の件もある。いくら君がもう大丈夫といっても、わしはそれを信用していいか判断がつかないのだ。」
重雄が慎重になることも無理はなかった。昨日まで直樹が出てくることを喜んでいた琴子が、数時間後には泣きながら帰宅したのである。こんなにコロコロと変わる状況の中、自分に琴子をくれなどと直樹は主張できるわけがなかった。

「君の申し出をわしは琴子に話していない。とにかく琴子が軽井沢から戻るまでこの話は保留にしてほしい。琴子が何を考えどう結論を出すのか。それを待っていてほしい。」
「…わかりました。」
重雄は許さないと言っているわけではなかった。琴子の気持ち次第だと言っているのである。
もう琴子は自分を信用していないのだろうか。直樹は不安になる。
琴子が戻って来た時、どういう答えを出すのか――。







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 |  2012.11.07(Wed) 22:06 |   |  【コメント編集】

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