日々草子 いとし、いとしと言う心 29

いとし、いとしと言う心 29





「かなりきつい調子で抗議してきましたので、釈放も時間の問題でしょう。」
公務から戻り軍服から和服に着替えたその人に琴子は、
「ありがとうございます!」
と頭を下げた。
「本当に何とお礼を申し上げたらいいか。」
「いやいや。よく確かめもせずに逮捕した方が悪いのです。いくら時勢が時勢だからといってむやみやたらに誰でも逮捕すればいいというものではありませんから。」

ここは松下の亡き夫の友人である将校の自宅であった。松下の紹介で琴子は彼に直樹の釈放に力を貸してほしいと頼んだのである。幸い、その将校―市塚少将は快く引き受けてくれたのだった。早速警察に出向き、直樹の逮捕について抗議してきてくれたのである。

「いくらロシアの革命が成功して共産主義者が増えてきたとはいえ、最近の特高は乱暴が過ぎる。」
「ロシアの革命…。」
琴子も話に聞いたことはあった。だが、それはどこか遠い世界のような話であまり深く考えたことはなかった。
「これからの日本が心配ではありますが…。」
市塚少将が懸念した通り、それから十年経たないうちに日本は治安維持法という世にも恐ろしい法律を作ることになり、大勢の人間が処罰の対象となる――。

「まあ、入江くんはもう大丈夫。入江家の見張りもどうやらなくなったようだから。」
市塚少将の話に、琴子はホッとして少し笑顔を見せた。

市塚少将は五十にはまだ少しといった年齢である。正直、琴子は軍人に怖いイメージを抱いていた。市塚少将も少将という高位の人間らしくさぞ厳しく近寄りがたいのではないかと緊張しながら、松下とこの家を訪れたのであった。
しかし市塚少将は、琴子のイメージを見事に覆す人物であった。
軍人らしく口髭をたくわえているものの、話してみるととても優しく穏やかな人物であった。琴子に対しても丁寧な言葉遣いであることも驚いたものである。

二人が話をしている所に、老婆がお茶を運んできた。
「何せ男の一人暮らしなもので、若いお嬢さんのお好みに合うか。」
このようなことを平気で口にするところなど、市塚少将は軍人らしくなかった。

「やはり…女性は一人の男を一途に愛する生き物なのでしょうな。」
「え?」
お茶を飲む琴子に市塚少将は目を細めた。
「入江くんのために、一生懸命努力をしたのはそのせいでしょう?」
「いえ、それはその…。」
恥ずかしさのあまり、琴子は俯いてしまった。それを見て市塚少将は声を立てて笑った。

「すみ子さんも同様ですし。」
「先生ですか?」
普段琴子は生徒の立場から「松下先生」という呼び方をしているので、松下を名前で呼ぶことがとても新鮮に感じられた。
「あの…もしかして…。」
琴子はこの先を口にすることが躊躇われた。いくら優しい人物とはいえ、相手は帝国軍人である。
しかし、その先は市塚少将が引き取った。
「…もう二十年近く、彼女を想っているのです。」
やはりそうかと琴子は思った。それで市塚少将は今だ独り身を貫いているというわけかと合点する。
しかし、松下は今でも亡き夫を愛し続けていることは琴子が一番よく知っていることだった。
――五十年分の幸せな時間をくれたから。
その言葉は琴子の心に今も響く。

「ですが、もうこの年齢になると夫婦になる、ならないなどどうでもよいことになりました。」
市塚少将は琴子の気持ちに気づいているのか、そのようなことを口にした。
「私は松下をずっと想い続けるすみ子さんが好きなので。松下の代わりにはなれないかもしれませんが、共にあいつに思いを寄せる同志になれれば十分です。」
他人を想い続ける女性を愛する…琴子にはその気持ちが分かった。琴子も直樹が沙穂子を選んだと知った時も愛し続けていたから。



「入江の釈放が決まったよ、琴子ちゃん!」
渡辺が声を弾ませて相原家を訪問したのは、直樹が逮捕されてから二か月半が経っていた。
「本当ですか!」
「ああ、入江家の弁護士が警察から連絡を受けたって。」
「よかった!」
手を取らんばかりに二人は喜び合った。
「琴子ちゃんが奔走した甲斐があったね。」
「そんな、渡辺様や皆様のおかげです。私なんて何もしていません。」
「いやいや、琴子ちゃんが市塚少将に頼み込んだおかげだよ。入江のご両親も大喜びだと思うよ。」
渡辺も入江家から「迷惑がかかると大変なので」という理由で訪問を拒まれている立場であった。
「それで、この日は琴子ちゃん、迎えに行くだろ?」
直樹の釈放の日付を琴子に教えた後、渡辺は訊ねた。
「でも、私が行っても…。」
今は先妻の立場の自分である。そのような自分が迎えに行ってもいいのだろうか。第一、直樹は困るのではないだろうかと琴子は躊躇した。
「何を言っているのさ。琴子ちゃんが行かなければ誰が行くんだい?」
渡辺が笑った。
「入江だって琴子ちゃんの顔を見たら大喜びするよ。」
「そうでしょうか?」
「ああ。絶対!」
まだ不安げな琴子に渡辺は太鼓判を押してくれたのだった。



「それで、直樹くんを迎えに?」
直樹が釈放される日の前日、琴子は重雄に迎えに行くことを話した。
「いいでしょうか、お父様。」
「構わんが…。」
琴子の直樹の想いを痛いほど知っている重雄である。そして直樹も琴子とやり直すと言っていた。もっともそれを重雄は琴子にはまだ話していない。直樹の口から琴子に直接話をした方がいいと思っているし、もし何かが起きて琴子を落胆させることになるたらと思うと不安でもあったからである。
「お父様?何かまずいことでも?」
警察までは歩いていくつもりであるし、大々的に相原家を示す真似をするつもりは琴子にはない。
「いや、お前がいきなり直樹くんに抱きついたりしないかと思ってね。」
「んま、お父様ったら!」
琴子は顔を真っ赤にして、重雄の背中を叩いた。
「痛い!」
「そんなこと、しません!」
「ならいいが。」
重雄は直樹を迎えに行くことを許したのだった。



「ったく、ひどい目に遭った。」
直樹は釈放されると、まずそう口にした。やっと疑いが晴れてホッとしている。
弁護士の話によると入江家に戻る許しが重樹から出ているとのことだったので、直樹は久しぶりの実家へと戻るつもりであった。
大泉家からは何の連絡もなかったが、迷惑をかけたことは間違いないだろう。後日お詫びに行かねばと思いつつ、おそらくこの逮捕がきっかけで沙穂子との縁談は白紙に戻ることになるとも直樹は思っている。
警察を出た時、直樹を迎えに来ている者は誰もいなかった。
「あいつが来ていると思っていたけれど…。」
もしや琴子が来てくれているのではと、淡い期待を抱いていた直樹であった。
大泉家の件では直樹は痛くもなんともないのだが、問題は琴子のことであった。
政治犯の疑いということで、面会は弁護士以外は誰も受け付けてもらえなかったらしい。両親は全て弁護士に託していたようであるが、琴子はどうだったのだろうか。弁護士以外に面会に来た人間がいたかどうかすら、警察は一切教えてくれなかった。

「いや、来るわけがないか。」
琴子は伯爵家の令嬢である。はねっかえりの娘ではあるが、さすがに特高や警察には怯えるだろう。
逮捕直前に重雄に琴子ともう一度結婚したいと告げていたが、今となってはどうなることか。

そして疑問に思っていることはもう一つ。
自分の釈放には将校の抗議によるものが大きかったということだけ直樹は知った。なぜなら警察が悔しそうに話していたからである。もっともいくら調べても証拠が出てこなかったということもあったが。
その将校とは一体誰なのだろうか。自分も入江家もそこまで世話を焼いてくれる軍人に知り合いはいない。

家に戻ったら分かるだろうか。そう思いながら、直樹が久しぶりの外の空気を吸った時だった。
直樹の前に高級車が滑り込んだ。運転手が下りて、恭しく後部座席のドアを開けた。中から降りてきた人間を見て直樹は息を呑んだ。
「沙穂子さん。」
「直樹様。」
現れたのは沙穂子であった――。



「馬鹿みたい、私…。」
直樹と沙穂子が向かい合っている様子を、琴子は物陰から見ていた。
琴子は直樹が警察から出てくる少し前から、そこに立って待っていたのである。いざ直樹の姿を見つけると、思っているより元気そうな様子にホッとしたことと、無事に釈放されたことの喜びで胸がいっぱいになり、出るタイミングを失ってしまっていたのだった。
そうこうしているうちに、沙穂子が現れたのであった。

「直樹さんは沙穂子様がいるのに…ああして迎えに来てくれる人がいるのに…。」
嬉し涙とは違う涙が琴子の目に浮かぶ。
薮小路家まで助けに来てくれたのは、自分のことを直樹も想ってくれているからだと考えたのは自意識過剰だったのだ。直樹は優しいから、縁あって一度は妻とした女を放っておけなかっただけなのである。
それをまだ愛情が残っていると勘違いした自分が恥ずかしい。
直樹に大泉家との縁談があったことを、琴子はすっかり忘れていたのである。それは直樹が逮捕されたからといって消えるわけではなかったのだ。

琴子が涙をこらえているうちに、直樹は大泉家の車に乗り込んでしまった。
「帰ろう…。」
自分などより、沙穂子の出迎えの方が直樹には嬉しいに違いない。これから二人で再会を喜び合うのだろう。
琴子はとぼとぼと、元来た道を戻り始めたのだった。





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あ~~~直樹のお馬鹿・・・・・
情けないわ・・・・・

琴子ちゃん、松下先生、市塚少将が力を合わせ
直樹さんが釈放出来ましたね。
ホッとしました。
なのになのにお嬢さん!!!なんだかきれいにほほ笑むお姿が
今はムカつきにしかならないわ!!!

直樹さんしっかりしない!!ふんっ

予想していた展開ですが、やっぱり読むと・・・・
琴子ちゃんが・・・

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Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
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