日々草子 いとし、いとしと言う心 20

いとし、いとしと言う心 20






「お客様、どなた?」
実家に戻って三週間が過ぎた。今年も残りわずかとなった年の瀬、相原家に客が訪れた。
お茶を運んできた女中をつかまえ、琴子は客が誰だか訊ねた。
「それが…。」
女中は応接間の方をチラリと見て、なかなか話そうとしない。
「まさか借金取りじゃないでしょう?」
女中の気持ちをほぐそうと冗談を口にしてみた琴子であるが、女中は笑ってもくれない。
「どなたなの?」
「…入江侯爵様でございます、お嬢様。」
女中が打ち明けると、琴子は「そう」とだけ話した。

三週間の間に直樹がどこへ行ったのか、考えない日はなかった。さる資産家の元へと言っていたが、もしかして入江家へ戻っているのではないかと期待してしまうことも多々ある。そうだったらどんなにいいだろうか。今日この家に重樹が来たことも、直樹が戻った報告だったらいいのにと思いつつ、いやそんなにうまくはいかないだろうと思い直して琴子は自分の部屋へ戻った。

一時間ほどたった頃だっただろうか。父重雄が呼んでいると女中が琴子を呼びに来た。
「お客様は?」
「お帰りになりました。」
琴子が案内されたのは、重雄の部屋であった。

「…座りなさい。」
琴子の部屋同様、重雄の部屋は和室であった。紫檀のテーブルの前に重雄は難しい顔をして座っている。
「先程、イリ…入江侯爵が見えた。」
「…聞きました。」
今までは「イリちゃん」と呼んでいた呼び方をかしこまった呼び方に変えた重雄の様子を琴子は訝しんだ。
「侯爵の話というのはだな…。」
重雄はそこで一度話を切った。琴子は緊張しながら続きを待つ。

「…お前を入江家から離縁することを正式に決めたということだ。」

重雄は娘の様子をうかがいつつ、告げた。

「離縁…?」
琴子の頭の中は真っ白になった。初めて言われたわけではない。前も直樹から言われたことがある。それにもかかわらず、やはり琴子は動揺を隠せなかった。

「ああ。」
重雄は琴子が倒れるのではないかと気遣っているようであった。実際倒れることができたらどんなに楽だろうと思う。
「直樹くんから連絡が来たらしい。」
「直樹さんから?」
直樹が実家と連絡を取ったとは、喜ばしいことではある。しかしその後に続く重雄の言葉に琴子の喜びは消え去ることになる。
「大泉家という名前を聞いたことがあるか?」
「大泉家?」
確か直樹と共に出席した夜会にて、その名前を聞いた記憶が琴子にはあった。
「あちらは貿易を仕事にしているわけではないから、わしや入江家とは直接的な付き合いがあるわけではないがな。しかし結構手広く商売をやっている実業家だ。かなりの財産家でもある。」
「財産家」…その言葉に琴子はもしやと思う。
「その大泉家に直樹くんは世話になることが決まったらしい。いずれは孫娘と一緒にさせようという話まで大泉家では出ているらしい。なんでも大泉の当主が直樹くんを以前からかなり買っているようでな。お前との縁談が起きる直前まで何とか直樹くんを婿にと入江家に働きかけてくらいだから。」
「大泉のお嬢様」という言葉がはっきりと琴子の脳裏によみがえった。
「直樹くんからは実家から勘当されている身だから知らせる必要はないという風に言われたらしいが、さすがにそれはまずいと大泉家は判断したのだろう。大泉家は使いを入江家へ寄越したそうだ…大泉家へ婿として迎え入れていいかということを。」
「ということは、直樹さんは大泉様のお孫さんと結婚することを…。」
「…承諾したということだ。」
琴子は畳に目を落とした。畳の目の数を数えて何とか自分の気持ちを落ち着かせようとする。

「これを聞いて入江侯爵はそりゃあもう激怒したそうだ。どこまで勝手なことをすればいいのだと、呆れて声も出なかったと先程話していたよ。だから大泉家へは“もう息子とも思っていない。いちいち入江家へ断りを入れることは及ばず”と返答したそうだ。」
「そんな…。」
ますます直樹と重樹の溝は深まってしまったということではないか。
「イリちゃんはな、琴子。」
親しい呼び方に戻して重雄が琴子を見た。
「イリちゃんが怒っているのは、直樹くんがお前をないがしろにしたことなんだ。お前という者がありながらさっさと捨てて、自分のことだけを考えて他の人間と結婚しようとしていることがどうしても許せないと言っていた。そのような勝手な男と縁を結ばせたことが申し訳ない。もうそんな息子は忘れて幸せを掴んでほしいという意味でお前を離縁することに決めたらしい。」
琴子のことが憎いわけでもなく、邪魔になったわけではない。ただただ、申し訳なさから琴子に別の幸せをと願って重樹は離縁することを決断したのだということである。

「…お義母様も裕樹くんも悲しんでいらっしゃるでしょうね。」
琴子の口からようやく出たのは、紀子と裕樹への気遣いであった。
「奥方は実の娘以上に可愛がっていたお前を離縁することが決まり倒れてしまったらしい。」
「お義母様…。」
叶うならば、今すぐ紀子の元へ駆けつけて看病をしたいものである。紀子は本当に自分を大切にしてくれた。困っている時はいつでも助けてくれた。それなのに何の恩返しもできないことが悲しくてたまらない。
裕樹だってあんなに慕っていた兄が家を出てしまったのだ。父が怒っている手前、兄に気軽に会いに行くということも憚られるだろう。
本当に入江家はバラバラになってしまったのだ――。

「イリちゃんが何度も何度もお前に謝っていたよ。本来ならば直接会って謝罪をしたいところだが、とても会わせる顔がないと。」
重樹のような名家の当主ならば、嫁を離縁することでいちいち自ら足を運ぶことはない。それなのにこうして自ら訪れたということで、琴子と重雄にはその誠意が伝わっていた。

こうして、琴子は入江家から離縁され「相原琴子」へと戻ったのだった。



「突然お姿を見せないから、お体の具合でも悪くしたかと思っておりました。」
いよいよ今年も残り十日をきった頃、琴子は松下の元を訪れていた。突然姿を消したお詫びをした後、琴子は入江家から離縁されたことを告げた。
「何ということ…。」
理由を聞き終えた松下は、さすがに琴子にかける言葉が見つからないようであった。
「私が悪いのです、先生。」
「あなたが?」
「はい。私がもっとお料理ができて、お裁縫もできれば…内職ができて直樹さんを支えることができたことでしょう。不器用であることが直樹さんの足を引っ張ってしまったのです。」
琴子は何とか笑顔を作った。しかし松下は難しい顔をしたままである。

「…呆れました。」
松下から言葉が出た。
「そうでしょうね、先生。私も自分で自分に呆れ…。」
「違います。」
「え?」
松下は「はあ」と溜息をついた後、言った。
「私が呆れたのは、入江様です。もっと骨のある方だと思っておりましたが、所詮その程度の方だったのですね。」
「いえ、先生、違います。」
琴子は体を浮かした。
「先生、違います。直樹さんは一生懸命でした。何もできない私を受け入れてくれたんです。」
「入江さん…。」
松下はつい琴子を入江姓で呼んでしまった。
「先生。」
琴子は姿勢を元に戻し、松下をまっすぐに見つめた。
「何です?」
「…私が直樹さんと二人きりで過ごしたのはわずか一か月半でした。」
琴子は目に涙を浮かべ、微笑んだ。
「たった一か月半でしたが…私も五十年分の幸せな時間を過ごすことができました。」
「あなたって方は…まったく。」
松下は苦笑したが、その目には光るものがあった。





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せつないです

上手くいきかけてたのに、、、 自分から離れて行く直樹がせつな過ぎます

琴子の最後のせりふに胸が震えて泣きそうです
健気で可愛い純粋な琴子
直樹の本心を早く教えてあげてー
水玉ワールドさすがです
ぐいぐい引き込まれてもう早く続きがよみたいです
楽しみに待ってます。

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Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
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