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2012.10.12 (Fri)

いとし、いとしと言う心 19


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直樹の物憂げな様子は琴子も気になっていた。
最近は部屋に籠ることが多い。少し前までは琴子がいる茶の間にやってきては、お喋りにも付き合ってくれていたのに、それすらなくなっていた。
「お勉強、そんなに大変なのかしら?」
今日は家庭教師の日であるので、いつもより直樹の帰りが遅い。医学の勉強がどれほど大変か自分には見当もつかない。
「せめて肩が凝ったとか言ってくれれば、マッサージもできるんだけど。」
自分にできることはないかと考えつつ、琴子は針を動かしていた。

「ただいま。」
「お帰りなさい。」
直樹が戻ったのは、それから一時間ほど後のことだった。
「お食事、今温めてくるね。」
いつものように笑顔で琴子が台所へ立った時だった。
「コンコン」という咳が琴子の口から出た。
「風邪か?」
直樹は琴子を見た。どことなく目が潤んでいる気がする。
「寒くなったから、空気が乾いているからよ。」
琴子は笑ってごまかそうとしたが、その口からまたもや「コンコン」と咳が出る。
「ちょっと座れ。」
「え?待って、お食事を…。」
「いいから座れ!」
直樹の怒声に、琴子はぴょんと座り込んだ。
直樹は琴子の額に手を当てる。
「…こんなに熱いじゃねえか。」
その額はかなりの熱をもっていた。
「お前、喉とか痛かったんじゃないのか?」
「そんなことないけど?」
とっさに琴子は嘘をついた。実はニ三日前から喉に異変を感じていたのだが、心配かけるまいと黙っていたのである。
「嘘つけ。これだけの熱だったらそんなわけない。」
しかし相手は医者の卵であった。すぐに嘘はばれる。

直樹はすぐに寝間に布団を敷き、琴子を無理矢理寝かしつけた。
「明日、病院で薬をもらってきてやるから。」
「…直樹さん?」
「何?」
「ご飯…ちゃんと食べてね。温めたらすぐに食べられるように…。」
「分かったよ。」
直樹が幼子にするかのように布団の上から琴子の体をポンポンと叩くと、琴子はようやく安堵の表情を浮かべた。

やはり体力が消耗していたのだろうか、琴子は布団に入るとすぐに眠った。
直樹は起こさぬよう、そっと寝間を出た。
そして琴子が作ってくれた夕食を温め、サッと食べる。相変わらずしょっぱかったりしているが、最初に比べたらずっとましだった。
「ここまで上達するのに、苦労したんだろうな…。」
一から料理を覚えたのだからその苦労は並大抵のことではなかっただろう。
直樹の元へやってきて早一ヶ月半が経とうとしている。11月も終わりかけている。慣れない生活が原因で身体を壊したことは間違いなかった。

「…もう限界だろうな。」
これ以上、自分のことばかり考えているわけにはいかない。直樹は食器を片づけながら決意していた――。



琴子が床上げをしたのは、それから五日後のことだった。
あれから熱が上がってしまい、結構大変な目に遭ってしまった。直樹が看病してくれたことは嬉しかったが、その間勉強の手を休ませてしまったことが申し訳ない。
「今日からまた、頑張るね。」
早速朝食を作った席で、琴子は直樹に笑いかけた。
「ああ…。」
直樹はどこか様子がおかしかった。
「何か食べたい物とかある?」
「いや、別に。」
いつもだったら「どうせ作れない」とかからかってくるはずなのだが素っ気ない。
「…。」
琴子は食事をしている直樹の額に自分の額をつけた。が、勢い余ってそれは頭突きとなってしまった。

「痛い!!」
「熱はないみたい。」
「何だよ、お前は!」
「だって風邪がうつったんじゃないかと心配になったんだもん。」
「ったく。」
額をさすりながら直樹は琴子を睨む。琴子は「えへへ」と笑っている。その笑顔が直樹の胸をくすぐる。

「行ってらっしゃい。」
五日ぶりに琴子に見送られ、直樹は大学へと向かった――。




「見て、見て!」
その晩、帰って来た直樹の前に琴子はハンカチを広げた。
「ほら、これ見て。ここ、ここ。」
琴子はハンカチの一角を指さす。そこには不器用な感じで『N』の文字が刺繍されていた。
最近裁縫をしていると思っていたのは、これを縫っていたのかと直樹は知った。
「使ってくれると嬉しいんだけど…。」
恥ずかしそうに琴子は直樹へハンカチを差し出した。
しかし、直樹はそれを受け取ろうとしなかった。

「直樹さん?」
琴子が怪訝な顔をした。
「あの、下手で嫌?」
かなり上手に出来た方だと思っているのだが、直樹は気に入らなかったのかと琴子は不安になった。

「琴子。」
直樹はハンカチを受け取らず、琴子を見た。
「はい?」
「…俺、やっぱり無理だ。」
「無理?」
もしや医者になる道が無理だという意味かと、琴子は思った。大学で何かあったのだろうか。
「そんな…直樹さんが無理だなんて。」
「いや、無理だ。お前とはもう暮らせない。」
「え…?」
琴子は耳を疑った。

「今、何て?」
震える声で琴子は聞き返した。聞き間違いか、もしかしたら冗談ではと願う。
しかし、直樹ははっきりと告げた。
「お前と一緒に暮らすのは、もう無理だ。」

「…どう…して?」
琴子は真っ青になって震える。直樹はその琴子を黙って見ている。
「私が…風邪なんて引いたから?」
「…そうだな。」
直樹は否定しなかった。
「押しかけてきて、病気になって。」
「…ごめんなさい。」
やはり直樹の機嫌を損ねていたのだと琴子は謝った。
「体調には今後気をつけるから…。」
「押しかけてきてもさ、家事全般こなしてくれるんなら重宝するもんだけれど。」
直樹は続ける。
「料理だって一向にうまくならねえし。ちっとも役に立たねえ。」
「…ごめんなさい。」
自分ではかなり上達した方だとは思っていたが、まさかそんなにひどかったとは。
「俺が自分でやった方がうまい。」
琴子は何も言い返せない。

「役に立たない奴を置いておいたおかげで、生活費は倍になるしな。」
直樹の心はこれまでなかったくらいに痛みを覚えていた。こんなこと思ったことはない。生活費など何とでもなる。
家事ができないのは当たっているが、そんなことはちっとも気にならなかった。琴子が傍にいてくれさえいれば、何でも出来るとまで思っている。
だが、それでは琴子は幸せになれないのである。

「貧乏生活も、もう限界だ。」
「だったら…私も働いて…。」
「お前に何ができるっていうんだ?」
直樹がにらむと、琴子は小さくなってしまった。

「ったく、お前を置いておけば相原の家から少しは援助してもらえると思って我慢していたんだけどな。それも期待できそうにないし。」
何と最低なことを琴子へぶつけているのだろうと、直樹は思った。しかしそこまで言わないと琴子は自分をあきらめないだろう。

琴子は琴子で、できるものなら父に援助を頼みたかった。しかし、相原家の立場からすると娘の嫁ぎ先への気遣いもある。追い出した息子にこっそり援助をしていたなんて入江家に知れたら、気まずくなることは間違いなかった。それを分かっていたからこそ、琴子は何も頼めなかったのである。

「俺は入江家を追い出された。お前も相原家を捨ててきた。俺たちは元々政略結婚だったわけで、今となっては一緒にいる理由は存在しない。そうじゃないか?」
直樹の言うとおりであった。お互いの家の事業が円滑に進むためにもなるし、父親同士が親友。だから結婚した二人である。

「でも私…私に出来ることなら何でも…。」
それでも琴子はあきらめようとしなかった。
「それが重いんだよ。」
直樹は言い放った。
「お前の気持ち、重すぎる。鬱陶しい。」
その言葉は琴子の心に深く深く突き刺さった――。


家を追い出された自分のために、慣れない家事を覚えてくれた琴子を自分は愛している。はっきりと言うことができる。

しかし、琴子はどうだろうか。
直樹は琴子の自分へ対する思いが、愛情からかどうか図りかねていた。自分を大事に思ってくれていることは充分分かっている。しかしそれは自分を愛しているからだろうか。
もしかして、琴子はあくまで「妻だから」という気持ちでいるのかもしれない。
琴子のような良家の子女は「良き妻となるよう」「良き母となるよう」と教え込まれてきた。そこに「夫を愛する」という意味は含まれていない。華族をはじめとするいわゆる上流社会においては愛情など必要ないものである。
もしや琴子は、愛情を知らないのかもしれない。妻としての役割しか考えていない。それで自分に尽くしているのかもしれない。直樹はそう考えるようになっていた。

自分を愛してほしいなど、口が裂けても言えない。愛されるような態度を取っていない。結婚したばかりの頃は泣かせたこともあった。そんな自分が愛されるわけがない。

そう考えると琴子に「愛してる」などと言わなくてよかったと、今では思っている。



「俺はこの家を出ることにした。だからお前も実家へ帰れ。」
「出るって、入江の家に戻るの?」
もしそうだとしたら、実家へ帰ってもいい。琴子は思ったが、直樹の答えは違った。
「いや、父上の怒りは溶けていないだろうし、俺も戻るつもりはない。」
「それじゃ、どこへ?」
「…さる資産家が俺の力になってくれるという。」
「資産家?」
「ああ。家へ置いてくれるし学費も存分に出してくれる。ありがたい話だから受けようと思う。だからお前は邪魔なんだ。」
「邪魔…。」
「そう。俺の未来にお前は邪魔だ。お前がいる限り、俺は医者になれない。」

それは決定的な一言だった。
琴子は俯いて、涙をこぼす。直樹はそれを見ぬふりをして立ちあがった。

「それじゃあな。」
どうやらもう出ていく気らしい。琴子にそれを止める気力は残っていなかった。

「自分がいる限り医者になれない。」
直樹の言葉が何度も琴子の耳にこだましていた。直樹が玄関の戸を閉める音を聞いた後、琴子は声を上げて泣き崩れた。



参考書類だけを手に、直樹は家を出た。
泣いている琴子を抱きしめたかった。しかしそれはもうできない。
琴子の笑顔だけを覚えて生きていこうと思っているのに、泣き顔だけが心に残っている。
一緒に暮らしていけたらどんなにいいかと思う。
しかし、琴子を病気にまでしてしまった。そこまでさせてまで自分だけが幸せになるわけにはいかない。
これ以上琴子を不幸にするわけにはいかない。
自分のように苦労ばかりさせる男よりも、お金もあって地位もある男と再婚してもらった方が幸せになれるはずである。

「くそっ!!」
直樹は地面を思いきり殴りつけ、そのまましばらく蹲っていた――。



琴子はそれからも泣き続けていた。どれくらい泣いていただろうか。
「琴子…。」
名前を呼ばれ、琴子は顔を上げた。
「お父様…。」
そこにいたのは、父重雄であった。
「…帰ろう、琴子。」
ここを出た後、直樹は相原家へ立ち寄り、重雄へ琴子を引き取ってくれるよう頼んでいったのだという。
それが直樹の最後の優しさであった。

結局自分は何も役に立てなかった。それどころか邪魔をしていた。
そんな自分が愛されるはずがない。
最後まで自分の片想いであったのだと、琴子は知った。

フラフラと琴子は立ち上がり、身の回りの品をまとめ始めた。
ふと見ると、棚の上にあのクリームの瓶があった。そして夢二のレターセット…。
それらを琴子は風呂敷へ包み、重雄に連れられて二人で暮らした家を後にしたのだった。





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 |  2012.10.13(Sat) 23:24 |   |  【コメント編集】

だ~か~ら~!!!
こっそりキスなんかしちゃうから、
一人で勝手に疑心暗鬼になって
本当に!!お馬鹿!!!!!
もう!!頭いい割に何か足りないんだよね!!
琴子ちゃんの気を使う前に、琴子ちゃんの気持ちを確かめなよ!!
と、直樹さんの情けなさにムカムカとしています。

もう!!本当に琴子ちゃんがかわいそう!!
頑張るんだよ!!
大丈夫だよ!!琴子ちゃんなら必ず幸せがやってくる!!
頑張れ!!琴子ちゃん!!
ゆみのすけ |  2012.10.15(Mon) 13:48 |  URL |  【コメント編集】

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