日々草子 いとし、いとしと言う心 15

2012.10.05 (Fri)

いとし、いとしと言う心 15


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琴子は白い割烹着姿で、味噌汁の味見をしていた。
「うん、おいしい。」
よい頃合いに魚も焼けた。
丸いちゃぶ台に、ご飯と味噌汁、焼き魚の質素な食事を並べると直樹が部屋から出てくる。
「なかなかやるじゃないか。」
琴子を褒めながら、直樹は漬物をつまみ食いする。
「だめよ、お行儀が悪いことをしちゃ。」
二人で「いただきます」と手を合わせ、ささやかな朝食の時間――のはずだった。



「おいしい。」
玉子焼きを口にした琴子は、目を見張った。
「…お味噌汁も完璧。」
豆腐だけの味噌汁がこんなに美味になるとは。
「それじゃ、俺は大学へ行くからゆっくり食ってろ。」
先に朝食を食べ終えた直樹が立ち上がる。
「洗い物は…まあできるならしておいてくれれば。」
「それくらいできます!」
と言いつつ、すでに琴子は茶碗をニ三個割っている。

「それじゃあ。」
「行ってらっしゃい。」
琴子は玄関で直樹を手を振って見送った。

「…はあ。」
直樹が行った後、茶の間に戻り朝食の続きを食べながら琴子は溜息をついた。
「これじゃ、邪魔しているだけじゃないの。」
案の定、琴子の料理は酷いものであった。
この家に転がり込んだ翌朝、張り切って朝食を作ろうとしたものの、ご飯の炊き方からして分からなかった。見かねて直樹が手際よく竈に向かい、気がつくと朝食が卓袱台に並んでいた。
その日の夕食も、直樹が作った。
「いつ、お料理を覚えたの?」
入江家で直樹が台所に立つ姿など見たことがない琴子は訊ねた。
すると直樹は琴子の前に一冊の本を出した。
「“基礎の家庭料理”…。」
「ここに越してくる時に本屋で買った。」
「初めてで出来ちゃったの?」
「本の通りにやれば誰でもできるさ。」
ということで、次の日の夕食、琴子は直樹の言葉を信じて本を見ながら作ったが…結果は散々たるものであった。


「買い物くらいはちゃんとやらないとね。」
直樹はすでに琴子の料理をあきらめている様子であった。初めから期待もしていなかったので怒っている様子はない。しかし、琴子はあきらめなかった。
「それじゃあ、本を見て材料を買ってきてくれ。」
それくらいならと琴子は引き受けた。直樹が「今夜はこれ」と決めた料理の材料をかきとめ、近くの店へと買い出しに行く。それが琴子の日課となっていた。

「忘れ物はないわよね。」
買い物カゴの中を確認するため、琴子が道の端に寄った時だった。

「入江さん!」
「え?」
一体誰だろうと琴子は振り返った。
「入江さん、あなたこんな所で何をしてらっしゃるの?」
「松下先生!」
琴子を呼んだのは、斗南女学院の担任の松下であった。

「突然復学したかと思ったら、また休学して。」
入江家から実家へ戻った時に、琴子は女学院に休学届を出していたのである。とても学校へ通える気分ではなかったのだった。
「お身体でも壊したかと思ってましたけど、元気そうですね。」
「ご心配かけて申し訳ありません。」
琴子は謝った。
「それにしても、その姿は一体…。」
松下は琴子の頭の先からつま先までじろじろと見た。お下げ髪に質素な着物、それに買い物カゴ。とても伯爵令嬢、いや侯爵子息の夫人には見えない。
「…まさか入江家が没落したというわけではありませんよね?」
もしそうならば新聞に報道されるはずである。
「いえ、そのようなことは。」
「では、どうして?」
「それは、その…。」
言い淀む琴子を見て、松下は言った。
「あなた、お時間は大丈夫?」
「はい、大丈夫ですが。」
「私の家、すぐ近くなの。道端で話せるような事情じゃなさそうですから、ちょっとお寄りなさい。」
ということで、琴子は松下の家へ連れて行かれることになったのである。


その家の表札には「片瀬」とあった。なかなか立派な門構えの邸宅である。
「さ、どうぞ。」
「え?」
松下はその門をくぐった。ここが松下の家なのか?名字が違うのではと不思議に思いながら、琴子は松下の後を追いかけた。

どっしりとした日本家屋を横目に、松下は庭をスタスタと歩いていく。着いた先は離れであった。
「お入りなさい。」
「お邪魔いたします。」
琴子たちが今住んでいる家とさして変わらないその家に、琴子は上がった。

「表札の名字が松下じゃなく驚いたでしょう?」
「はい。」
「あれは私の旧姓なのです。」
「旧姓?ということは先生、ご結婚されているのですか…あわわ。」
てっきり独身かと思っていた琴子はつい口を滑らせてしまった。
「ええ。」
琴子の失言をさして気にすることもなく、松下は答えた。
「お茶を淹れる前にちょっと待っていてもらえるかしら?」
「いえ、お構いなく。」
松下は部屋の片隅に歩いていく。そこには仏壇があった。
松下は手なれた様子でろうそくに火をともし、線香をあげる。そして静かに手を合わせた。

「…主人です。」
仏壇へ顔を向けたまま、松下が言った。
「え?」
「いらっしゃい。」
松下に誘われるまま、琴子は傍へ寄った。そこには軍服姿の若い男性の写真があった。
「先の…ロシアとの戦争で。」
明治のロシアとの戦争で戦死したのだという。
「ごめんなさい、先生。」
琴子は謝った。
「いいえ。」
松下は「お茶を淹れましょう」と台所へ立った。



「さて、あなたのお話を聞かないとね。」
お茶を淹れた松下は琴子を見た。
「どういうことになっているのですか?」
「あの…。」
隠してもしょうがないので、琴子は打ち明けることにした。

「まあ、入江様が勘当…。」
さすがの松下も驚きを隠せないようであった。
「それはまあ…入江侯爵様のお気持ちも理解できますね。」
「ええ。」
やはり皆そう思うらしい。
「ですが、息子様もお気持ちもわかります。」
「はい。」
「それであなたも後を追いかけてきたと。」
「はい。」
松下は琴子の傍に置かれた買い物カゴに目をやった。大根の葉っぱが見える。

「あなたの家庭科の成績ではお料理など大変でしょうね。」
「おっしゃる通りです。」
「入江様はあなたを離縁すると仰ったのに、なぜ追いかけたのですか?」
「それは…。」
琴子は着物を握った。
「入江様の足を引っ張ることになると分かっていたのでしょう?」
松下は容赦ない言葉を琴子へ突き付けて来る。
「確かに…その通りです。」
琴子は頷くしかなかった。
「足を引っ張っているのは百も承知です。それでも私は直…夫の傍にいたかったのです。」
琴子は顔を上げ、松下の目を見た。
「夫は全て自分が悪いと言い張って、私を庇って家を出ました。そんな優しい人を一人になどしたくなかったのです。」
「入江さん…。」
「私は妻です。夫を心から愛しております。」
そこまで言った時、琴子は顔が真っ赤になった。愛しているなど、何とはしたないことを口走ってしまったのか。そのような言葉を軽々しく口にしてきっと怒られるに違いない。

しかし、松下は怒らなかった。
「先生、あの…。」
常に良妻賢母、女らしくと言っている松下が何も言わないことに琴子は不安を覚えた。

「…たった一ヶ月でした。」
松下が静かに口を開いた。
「私たちの結婚生活はたった一ヶ月でした。」
「え!」
たった一ヶ月だったなんて。琴子は信じられなかった。
「ですが、とても幸せでした。」
松下は夫の写真を見つめた。その目は学校で見たことのない優しい目であった。
「私は主人を心から愛しておりましたから。主人も同じでした。」
「さぞ…お心残りだったことでしょう。」
琴子の言葉に松下は頷く。
「たった一ヶ月の結婚生活だったのだからと、私を気遣って松下の家は籍を抜くように言ってくれました。しかし私は首を縦に振りませんでした。私の夫は生涯一人だけだと決めていたのです。松下の父と母も私の気持ちを理解してくれて、こうしてお位牌を置かせてくれました。」
毎日朝晩、線香を上げているのだという。

「この家は実家なのです。今は兄が継いでいます。兄も最初は私を心配して再縁したらどうかと話を持ってきてくれましたが、最後は折れてくれました。ただ女一人では心配だからと、せめて一緒に暮らしてくれと言うので。兄嫁もとてもいい人で同じ家で暮らしたらと言ってくれていますが、私はわがままを申して離れにこうして暮らしています。」
女学院の教師という職が見つかり、なんとか女一人で身を立てられているのだと松下は言った。

「入江さん。」
「はい。」
「私は女学院で良妻賢母になるべく努力をと口を酸っぱくして申しておりますが、心の中はいつも複雑だったのです。」
「複雑?」
「ええ。斗南女学院は名家の令嬢方が集う名門。恋愛などしない方ばかり。いえ、恋愛などはしたないと私たち教師が申しているのですものね。」
松下は笑った。確かにその通りで、少女雑誌ですら「そのようなはしたないものを読むなどもってのほか」と見つかったら取り上げられる始末である。

「女性は親が決めた相手に嫁ぐのが一番いい。嫁いだら夫に従う。家でもそのように言われているのですから、政略結婚にも皆様、疑問に思われることなく嫁いでいかれます。」
「そうですね…。」
そういう自分も政略結婚に入るわけであると琴子は思った。
「ですが私は疑問に思っていました。愛することなど知らないまま嫁いでいき、ただ家と家をつなぐだけの道具になる生徒たちはこのままでいいのだろうかと。そのような結婚は破綻するのが目に見えていますから。」
松下の言うとおりだった。妾が既にいるどころか、妾との間に子供まで儲けている男の元へ平気な顔で嫁ぐ話を琴子も聞いたことがある。
または、お互い愛人を作り形だけの夫婦を続けている話。琴子は自分はそうはなりたくないと強く願っていた。

「可哀想でなりませんでした。幸せになれない生徒達ばかりで。自分が幸せな結婚だったから余計そう思っていたのでしょうね。」
と、そこで松下は琴子に笑いかけた。
「たった一ヶ月で幸せだったのかと、不思議に思っているのではなくて?」
「いえ、そんな。」
そう答えたものの、戦争に引き裂かれた事実を知った今、悲しいとの思いが琴子には強かった。

「たった一ヶ月の結婚生活でしたけどね。」
松下は夫の写真を見つめて言った。
「私にとっては五十年分の結婚生活に相当する、幸せな時間だったのです。」
松下の言葉に、琴子の両目から涙がこぼれた。



「…ですから、入江さんの気持ちが嬉しいのですよ。」
泣く琴子を前に、松下が言った。
「ああ、やっと心から愛する人を見つけた生徒が現れたと思って。」
「先生…。」
「全てを捨てて追いかけるなんて、普通の女性にはできないわね。まあ、あなただからできるような気がします。」
松下はクスクスと笑った。そこには鬼のような厳しい教師の顔はなかった。

「それでは当分学校へ通う暇はありませんね。」
「はい、申し訳ありません。」
琴子は謝った。
「…夕方の四時以降でしたら、時間はありますか?」
「え?」
「私が学校から戻る時間が四時なのです。この家に来れそうですか?」
「あの、それはどういうことでしょうか?」
松下は琴子の買い物カゴを見ながら言った。
「あなた、何もできないでしょう?当分この家に通いなさい。私が料理を教えます。」
「ええ!ですが、先生もお忙しいですし…お疲れですし。」
「何を遠慮しているのです。これはあなたの大事な旦那様のためでもあるのですよ。」
確かにそうだが。
「あなたがここで作った物を、お家に持ち帰ればいいでしょう?料理の作り方も覚えて夕食のおかずも手に入り、一石二鳥じゃありませんか。」
「はい、確かに。でも…。」
「愛する旦那様が栄養失調で倒れてもいいと?」
琴子は想像してしまった。ヘロヘロののしイカのようになった直樹が行き倒れになっている姿…想像した途端、ブンブンと頭を横に振った。

「お願いします、先生!」
琴子は両手をついて頭を下げた。それを見て松下は満足げに笑みを浮かべた。

早速、料理教室が始まった。さすが家庭科の教師、琴子が買ってきた材料から見事な料理を作った。琴子はそれをノートに取りながら、手ほどきを受けた。

「ありがとうございました、先生。」
出来上がった料理に布巾をかぶせたものを手に、琴子は松下に礼を言った。これで直樹を勉強に集中させることができる。

「それにしても入江さん。」
「はい?」
「あなた、変わりましたね。」
「そうでしょうか?」
「ええ。ご結婚したばかりの頃は入江さんと呼んでも振り返らなかったのに、先程は一回で振り返りました。」
「あ…。」
「すっかり、身も心も入江琴子さんにおなりなのね。」
松下の言葉に、琴子は嬉しさが込み上げてきたのだった。

家で夕食を作るものと考えていた直樹は、すでに完成されていた料理に驚いた。
琴子から松下から教わることになったと聞いて、言った。
「お前、いい先生に巡り合えたな。」
「…ええ!」
こうして、琴子と直樹の二人きりのささやかな生活が軌道に乗り始めたのだった。




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