日々草子 いとし、いとしと言う心 14

いとし、いとしと言う心 14






入江家とは正反対の日本風の邸宅。その一室に琴子は今いた。
違い棚に飾られた香炉、母が嫁いできた際に持ってきた人形に欅の文机。飾り棚には友人たちとこぞって集めた夢二やまさをの絵がきちんと表装されて置かれている。嫁ぐ前と何ら変わっていない、自分の部屋で琴子はぼんやりと日々を過ごしていた。
「戻って来たのかしら…。」
そして考えることはいつも同じこと。直樹が入江家に戻ったのかどうか

「お嬢様、旦那様がお呼びでございます。」
「お父様が?」
昔から仕えてくれている女中頭の声に琴子は立ち上がった。



「どうも直樹くんはまだ戻っていないらしい。」
帰宅した父は着物に着替え、難しい顔をしていた。
「そうですか…。」
どこへ行ってしまったのだろうか。
「イリちゃんも探す気すらないらしい。自分の息子のことよりお前のことを心配していた。」
あの大騒動の後、結局琴子は実家へ戻ることになった。ただ、離縁だけは待ってもらっているので未だ琴子は「入江琴子」である。
考えてみれば、離縁されないのは入江家の当主が重樹であるからである。これが普通の華族、いや華族でない一般家庭であったとしても、息子があのようなことをしたのは嫁のせいだと八つ当たりされても不思議ではない。
離縁の件にしても、重樹の一存で簡単に琴子を相原姓へ戻すことはできるのにそれをしないのは重樹と紀子が琴子を実の娘のように可愛がってくれていたからである。

そんな優しい家族を騙していたのだ。琴子は罪悪感でいっぱいだった。
元をたどれば、あの時直樹の大学へ行かなければ。そうすれば直樹の秘密を知ることもなかったし、直樹が自分をかばって一人悪者になる必要もなかったのだ。直樹が家を出て行く羽目になったのは自分のせいだ。そう思った琴子は何度も入江の両親に真実を打ち明けたいと思った。

しかし――。

直樹からの離縁状に『絶対に知っていたとは打ち明けないでくれ』と書かれていたのである。あの時「黙ってろ」と怒鳴られ、さらに念を押すように書き残していった直樹の気持ちを思うと、琴子は打ち明けられなかった。
打ち明けられないまま、実家に戻って二週間が過ぎようとしていた。

「直樹くんの気持ちも分かる…。」
重雄の台詞に琴子は我に返った。
「自分のめざす道を見つけた以上、がむしゃらに突き進みたいと思うのは無理もない。だがイリちゃんの気持ちを思うと。」
ここで重雄は溜息をついた。
「イリちゃんにとって直樹くんは自慢の息子だったからな。期待もかなり大きいものだっただろう。自分が築き上げたものを息子に継いでほしい。それは親ならば当然の思いだ。わしだってお前が息子であったらそう願っただろう。」
「お父様…。」
「その息子に、築いてきたものをけなされれば…激怒するのは無理ないな。」
「あれは直樹さんも気が動転していたんです。普段でしたらあのような言い方はしません。」
琴子は直樹を庇った。相原家をどうすると脅した云々については重樹も琴子も重雄には話していない。
「わしだってそう思う。だが、言われたものは心に残る。イリちゃんは深く傷ついただろう。」
どちらの味方もしてやりたい、重雄はそう思っている。

「お父様から何とかしていただくことは…。」
「無理だ。」
重雄は首を振った。
「確かにイリちゃんはわしの親友であるが、娘の婚家でもある。婚家に口出しはできない。」
重雄の立場も複雑であることを琴子は知った。

「とにかく、様子を見るしかあるまい。」
「はい…。」
直樹のことだから野垂れ死にすることはあるまいよと重雄は最後に結んだ。



「琴子。」
部屋を出ようとした娘を重雄が呼び止めた。
「何でしょうか?」
振り返った琴子に、重雄がニッコリと笑いかけた。
「いや…嫁いでまだ一年も経っていないというのに、娘から妻の顔になったものだと思ってね。」
政略結婚な上、あれよという間に嫁いだのである。夫婦仲がうまくいっているか重雄鳴りに心配していたのであった。
「先程、直樹くんを庇ったところは妻以外の何物でもなかった。」
「いやなお父様。」
琴子も笑った。
「当然じゃありませんか。私は直樹さんの妻ですから。」
それを口にした時、琴子の中で何かが通り抜けた気がした――。



一方、ところ変わってここは東京の根岸。
小さな家で直樹が机に向かっていた。
江戸時代はこの辺りは商家の別宅が多く存在し、直樹がいる家もそのうちの一つである。大家は直樹の親友、渡辺であった。
男爵家の子息である渡辺は、父が手に入れたこの家をいたく気に入り頼みこんで譲り受けていた。そこを直樹は借りているのである。
医者になる直樹の夢を応援してくれている親友は、直樹が家を出たことを知るなりここを提供してくれたのだった。
「家賃は気にしないでくれ。給金のいらない寮番を雇ったと思えばこちらも気が楽だから。」
とまで渡辺は言ってくれた。その言葉に直樹は甘えている。

コンコン…。

玄関の戸を叩く音が直樹の耳に入った。入江家とは違いこの家は三間のこじんまりとしたものなのでそういった音はすぐに聞こえる。

「誰だ?」
時計を見ると夜の九時である。渡辺でも遊びに来たのだろうか。それにしては遅すぎる。
直樹は用心しながら玄関の灯りをつけた。
「何か?」
外に訊ねると、驚く声が返って来た。
「…琴子です。」
直樹は目を見開き、急いで玄関の戸を開けた。
そこには風呂敷を背中に背負い、黒い旅行鞄を下げた琴子が立っていた。

「お前、何でここに!」
「あの…渡辺様から教えていただいて。渡辺様ならご存知かもと帝大にお尋ねしました。」
「そういうことじゃなくて。」
ここを知った理由ではなく、やってきた理由を直樹は知りたい。
「俺はお前に離縁状を渡したはずだが?」
直樹は冷たい声を出した。
「これですか?」
琴子は懐からそれを取り出す。
「そうだ。それを持ってさっさと…。」
直樹が話す途中で、琴子は離縁状を真っ二つに破いた。
「てめえ、何をする!」
琴子の行動に驚いた直樹は、その手から離縁状の半分を奪った。が、もう完全に使いものにならない。
「ったく、これがあった方が離縁もすんなり認めてもらえるだろうに。」
華族の婚姻は特別な許可がいる。離縁も同様であった。

「とにかく、俺はお前を離縁すると言ったんだ。」
侯爵家の子息かつ親友の息子だからこそ、重雄も娘を安心して嫁がせたのに、勘当され自分には学問しかない。そんな自分と一緒にいても不幸せになるだけだと思い、直樹は離縁を告げたのだった。それなのに後を追いかけて来た琴子を前に、直樹は困り果てていた。

「私は認めないもん!」
「何?」
直樹の眉が潜められた。
「お前が認めなくても、夫の俺が離縁するって言っているんだ。妻は黙って従え。」
「断ります。」
琴子のきっぱりとした態度に、直樹はたじろいだ。

「直樹さん、頭がいいのに考え方は古いのね。」
「何だと?」
今まで見たことのない琴子の態度に直樹は驚きつつ、平静を保っていた。
「男に女が黙って従うなんて古いわ。直樹さん、知らないの?」
「何をだ?」
「ええと…“女性は太陽になれ”よ。」
「あ?」
琴子は上を見ながら続ける。
「続きがあるのよ。確か…。」
「何だよ?」
「ええと…月を見たら病気になる…だっけ。」
「お前が言いたいのはこれか?“元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である”っていうやつか?」
「そう、それ!」
琴子は手を叩いて笑った。
「何だ、知ってるんじゃないの。」
「ふん、うろ覚えで言うな。」
「あら、意味は分かってるわよ。つまり女性は太陽のように輝く存在であったってことでしょ?」
「女性は元来主役であった、それが今は他の光で輝くしかない月であるって意味だ。意味くらいちゃんと覚えて言えよ。」
「そこまで分かっているなら、勝手に離縁とかはなしね。」
「え?」
しまったと直樹は思った。琴子に反論させる手助けをしてしまったのである。
「でしょう?女性だって主役なんだもの。だから私の生き方は私が決めるの。直樹さんは勝手に決めたらだめ。」
筋が通っている琴子の意見に、直樹は言い返せなかった。


「ということで、私もここで暮らしていい?」
「よっこいしょ」と琴子は背中から風呂敷包みを玄関に下ろした。
「何でそうなる?」
離縁の話は置いておくとして、ここで暮らすのは別の話である。
「だって妻は夫と共にいなければ。」
琴子は直樹に笑いかけた。
「私は直樹さんの妻だもの。夫の傍にいます。」
きっぱりとした琴子の態度は絶対引かないという強い意志であふれていた。

重雄に妻らしくなったと言われた時、琴子は自分がすべきことに気付いたのである。そうなると居てもたってもいられず、琴子は帝大へ向かい、この家のことを渡辺に教えてもらったのだった。そして家に戻ると書き置きを残し、ここへやって来たというわけである。

「…ここには俺しかいないんだぞ。」
直樹は顔を家の中へ向けた。
「部屋だって三間だ。当然使用人なんていない。」
「大丈夫、私が家事は全部やるから。」
琴子は胸を叩いた。
「全部やるって…。」
裁縫がだめなことは言うまでもないし、お嬢様育ちの琴子が炊事洗濯をこなせるとは直樹には思えない。
「何とかなるわよ。助け合うのが夫婦じゃない。」
「助け合う?」
「そうよ。」
琴子は頷いた。
「あの時私は直樹さんがお医者様になることを支えるって決めたんだもの。私は直樹さんの応援団なんだから!」
笑顔の琴子に、直樹の心もいつしか晴れ晴れとしたものが広がっていた。

「…知らないからな、俺は。」
それは琴子を受け入れるという直樹の返答であった。
「飯だってろくなもんは食えないからな。」
「私がおいしくしてあげるから!」
「絶対期待できねえ。」
「んまっ!」
膨れる琴子の前で直樹は風呂敷包みを手にした。
「ほら、そっちも。」
直樹は琴子からカバンを受け取る。

「お前さあ。」
右手に風呂敷包み、左手にカバンを持った直樹は廊下を歩きながら琴子に訊ねた。
「さっきの“元始、女性は…”って言ったのは誰だか知ってるんだろうな?」
「もちろん!平塚ちょうちょうさんでしょ?可愛い名前よね。」
「ばあか。平塚らいてうだ。」
「あら、そうだったかしら?」
「ったく。」
直樹は呆れつつ、
「元始、女性は太陽であった…ね。」
と、また呟いた。
「…確かにその通りだな。」
琴子がこの家に入った途端、薄暗かった部屋が突然明るくなった気がする。
「…俺にとっての太陽はお前かな?」
「ん?なあに?また馬鹿にしたでしょ?」
聞こえなかった琴子は口を尖らせた。
「まあな。」
直樹が笑うと「ひどい」と琴子が抗議したのだった。




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こうでなくっちゃ♪

これこそ『琴子』、ですね♪
夫である入江くんの傍で、応援する・・・
いつだって、いたってシンプルな琴子が可愛くて仕方ないです♪
君は僕の太陽だ!!って、入江くんにもっと自覚させてあげなきゃ♥(笑)
二人きりの新婚生活、頑張れ!!

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Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
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当ブログは、『イタズラなkiss』の二次創作をメインとしておりますが、時折管理人の趣味や日々の出来事についての記事も書いております。

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