日々草子 いとし、いとしと言う心 10

いとし、いとしと言う心 10






「…一つ聞いてもいい?」
直樹は琴子を見た。
「何だ?」
「お医者様になろうと思ったのは…服部様のことが理由?」
若くして病死した親友のことが理由だろうかと、琴子は思った。
「…ああ。」
やや間があって、直樹が答えた。
「服部様のような方を一人でも救いたいから?」
「半分正解、半分はちょっと違うかな。」
「半分は…違う?」
「そう。確かに不治の病をこの世からなくしたいという思いが強くなったのは理由の一つだ。あと一つは…。」
「あと一つは…?」
琴子は直樹の答えを待った。

「…俺は昔から勉強も運動も困ることがなかった。」
池を見つめ、直樹が話し始めた。
「大して苦労もせず一等を取ってきた。」
自分で言うくらいなのだから相当なものだろうと琴子は思った。だが直樹はどこか寂しそうである。
「だからやりたいということがなかった。その気になれば何でもできると思っていたからな。そう考えると、情熱を傾けてまでやりたいということが見つからなかったんだ。」
勉強もお裁縫も苦手な琴子からするとうらやましいばかりであるが、やはり直樹は少しも嬉しそうではない。

「勉強ができたから一高へ進んだ。父上は出来のいい俺に期待している。将来は家業を継ぐだろう。だったらつぶしがきくからということで帝大の法学部を選んだ。」
そこへ入るためにどれほどの人間が泣き、あきらめていくかも自分は気にもならなかったと、直樹は続ける。

「このまま家業を継ぐのだろうなとぼんやりと考えていた時だった…服部が倒れたのは。」
いつしか直樹は足を組むことをやめ、膝の上で両手を組んでいた。前かがみになったその背中が寂しそうに見える。

「服部は病床で言ったんだ…。」
琴子は黙って話に耳を傾けていた。
「“お前は何でもできるんだ。時間がたっぷりあるんだから、やりたいことを見つけて邁進しろ”ってね。」
直樹の表情は琴子から窺うことはできない。
「あいつは自分に残された時間がないことを知っていた。やりたいことが山のようにあったろうに。それに比べ俺はなんて愚かだろうと思った。俺は怠惰に生きている己を恥じたよ。」
「それで…お医者様になろうと思ったの?」
「ああ。服部のような病で苦しむ人間を一人でも減らしたい。人から褒められる俺の頭の出来を役立てるのならそれだと思ったんだ。」

それから二人は、池のほとりで遊ぶカモやカメを黙って眺めていた。屋根などないのに、周囲に生い茂った木々に囲まれたそこは、晴れているというのにどこかひんやりとした空気であった。



「入江くん?」
二人の前に、背広姿の中年男性二人が現れた。
「大河原教授、山城教授。」
彼らを見た途端、直樹が弾かれたように立ち上がった。琴子も何となく立つ。
「そちらのメッチェンはもしや?」
またドイツ語だと琴子は思った。こんな年配者までそういう言葉を遣うのかと思っていた時、驚いたことが起きた。

「妻の琴子です。」

――今、何て?

琴子は耳を疑った。
直樹は何と言った?自分のことを「妻」と呼び、そして「琴子」と名前を口にしなかっただろうか。

「琴子、琴子。」
驚いている琴子の名前を直樹が呼んだ。その声で琴子はハッと我に返った。
「医学部の大河原教授と山城教授だ。ご挨拶を。」
「あ、は、はい!」
琴子は緊張した。
「あ、あの…愚妻の琴子です。いつも夫が大変お世話になっております。」
「馬鹿、それはお前が言うもんじゃない。」
直樹が慌てるが、教授たちは「アハハ」と朗らかに笑った。
「いやいや、細君は女学生か。」
「初々しいですなあ。気にしない、気にしない。」
謝る直樹と琴子に教授たちは手を挙げて、池を後にした。



「一人で大丈夫だよな?」
「大丈夫。来た道を戻ればいいだけでしょう?」
二人は渡辺と琴子が話していたベンチまで歩いてきた。
直樹は「あちらが正門だ」と指差す。
「じゃあな。」
「はい。」
来た時と同様、琴子は風呂敷を抱えて「それでは」と直樹に背を向けた。
琴子の背中を見送りながら、直樹はおそらく今夜、重樹に医学部の件がばれるだろうと思った。
直樹は渡辺たちのように琴子に口止めは要求しなかった。なぜなら、琴子に両親を騙すような真似をさせたくなかったからである。黙っていれば分からないことを話してしまうほどの正直者な琴子。直樹はそんな琴子の性格を密かに気に入っていた。

そんな思いで直樹が見つめていると、琴子が立ち止った。男子学生に話しかけられている。
「何やってるんだ?」
直樹は眉をひそめた。
すると琴子は、風呂敷包みから水筒を出した。

「はい、どうぞ。」
お茶を出された男子学生は「ええと…」と困った表情を浮かべていたが、
「それじゃあ、お言葉に甘えて…。」
と、琴子からお茶を受け取ろうとした時だった。どこからか伸びてきた手がそのお茶をサッと横取りした。
「え?」
二人が何事かと見ると、直樹がそれを一気に飲み干していた。
「何をやってるんだ?」
飲み終えた後、直樹が琴子を睨む。学生は恐れをなしてサーッと逃げて行ってしまった。
「何って、あの方がお茶をと言ったから。」
直樹から受け取り、琴子は水筒を元へ戻しながら言った。
「“お茶でもどうですか?”と声をかけられたの。喉が渇いているんだなって思ったから私、“お茶なら持っていますよ、どうぞ”って分けてあげようとしていたのよ。」
そして琴子は学生が逃げて行った方向を眺めながら言った。
「あーあ。あの方、喉大丈夫かしら?」
「あいつはそういう意味でお前に声をかけたんじゃねえよ。」
琴子の天然ぶりに直樹は言葉を失ってしまった。

結局、直樹は琴子を正門まで送る羽目になった。

「ありがとう、送ってくれて。」
「家までまっすぐ帰れよ、女学生。」
「んま!自分だって大学生のくせに。」
琴子がぷーっと頬を膨らませると、直樹の頬が緩む。

直樹に見送られ、琴子はてくてくと歩いて行った。
やれやれと思い、直樹は構内へ戻ろうとした時だった。

少し離れたところまで歩いて行った琴子が、クルリと振り返った。
そして右手を高々と挙げて大きく振っている。
「…ばあか。」
人の目もあるので、直樹は胸の前で小さく振り返した。それを見て琴子の顔に笑顔が広がったのだった。



直樹の予想は外れた。
きっと重樹が怒りの表情で待ち構えているだろうと覚悟して帰宅したのだったが、いつものように「お帰り」とにこやかに迎えられ拍子抜けしてしまった。

「お前、話さなかったのか。」
その晩、いつものようにお茶を運んできた琴子に直樹は訊ねた。
「何を?」
「医学部のこと。」
「ああ。」
お盆を胸の前で抱え、琴子は今思い出したかのような顔をした。
「言わない。」
「どうして?父上と母上、裕樹、さらに相原の義父上もだますことになるんだぞ?」
「それでも私は直樹さんの方が大事だもの。」
屈託のない顔に、直樹は驚く。

「家の中でずっと黙っているのは辛かっただろうなと思って。私一人でも知っていれば、直樹さんの心が少しは楽になるんじゃないかと思うんだけど?」
「俺が医者になることはお前、大丈夫なのか?」
琴子との結婚は政略的な意味合いが強い。事業家の妻ではなく一介の医者の妻になることは琴子にとって不安はないのかと直樹は思う。
「全然!」
これまた屈託のない笑顔で琴子は答えた。
「だって私は…。」
途中まで言いかけて琴子の口が止まった。顔が見る見る赤くなる。
「私は…直樹さんの妻だから。妻ならば夫の選んだ道を応援するのは当然でしょう?」
本当は「直樹さんを愛しているから、愛する人が何の仕事をしようが応援する」と言いたかったのだが、とてもそこまでの告白はできなかった。

「ところで、お前、大学まで何しに来たんだ?」
琴子の素直な態度に戸惑う心を隠すため、直樹は今頃そのようなことを口にした。
「俺の話ばかりでお前の目的を聞かなかった。」
「え?ああ!!」
突然叫んだかと思うと、琴子は直樹の部屋から飛び出し寝室を横切り自分の部屋へ飛び込んだ。
そしてすぐに戻ってきた琴子の手にはパウンドケーキがあった。
「これ、調理実習で作って。上手にできたから食べてもらおうかと。ほら、あの…妻らしいことをしたくて!」
ところどころ焦げているパウンドケーキを前に琴子は「あ、下からお皿とかフォークとか持ってこなくちゃ」と慌てる。
「いいよ、このままで。」
「え?」
直樹はついと手を伸ばし、パウンドケーキをちぎった。そのまま口へ放り込む。
琴子は黙ってその様子を見つめていた。
「…苦い。」
「あの、洋酒を少々入れたから…。」
「違う、これは焦げている苦さだ。」
「そんなあ!」
がっかりする琴子の前に、直樹がケーキの欠片をつき出した。
「それじゃ、ちょっとこれをそこに置かないと…。」
ケーキを持っている琴子の両手は塞がっている。
「いいよ、面倒だから口を開けろ。」
「へ?」
思わず言われるがまま口を開けてしまった琴子。その中に直樹は欠片を入れた。
「…おいしい。」
「自分で焼いておいてよく言うぜ。」
直樹はクスッと笑った。琴子はもぐもぐと口を動かしているが、正直嬉しさのあまりに味が分かっていない。

「それじゃ、お勉強頑張ってね。」
邪魔をしてはまずいと、部屋を出ようとした琴子に直樹が、
「琴子。」
とまた名前を呼んだ。
「…ダンケ。」

―― ありがとう。
今日渡辺に教わったドイツ語だったので、琴子にも意味は分かった。琴子は胸がいっぱいになった。
これからはもう琴子の前でだけは隠す必要がない。堂々と勉強ができる喜びを素直に直樹は口にしたのだった。

こうして直樹の秘密を共有することにより、二人は夫婦らしくなり始めたのだった。




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少しずつ、お互いを認め合っていく姿がとてもうれしいです。
琴子ちゃんはもう直樹さんを認めていますし、愛情もはっきりしていますので
もう応援するのが当たり前になって。その姿がいじらしいです♪
まぁ直樹さんも琴子ちゃんに秘密を明かしているんだから・・・・・
けど、無自覚だからね。。。。。

これからどんな展開になっていくのか全く見当もつかないので
続きをいつも楽しみにしています。
大変でしょうがこれからも宜しくお願いします♪

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まあちさん、ありがとうございます。

私は第2外国語フランス語でしたが「シルブプレ~」しか覚えていませんよ(笑)
あと最初のhは発音しないとか(笑)
語学って初めは習っている自分に酔いしれているのですが、だんだんと難しさに挫折していくんですよね…て私だけ?

ぷりんさん、ありがとうございます。

ちょっと嫉妬直樹を入れてみました。
無自覚での行動ですよ~。そして相変わらずわかっていない琴子ちゃん。
本当にいい雰囲気になりつつあります!

あけみさん、ありがとうございます。

お久しぶりです!
一気読みされましたか。ありがとうございます。
正直な琴子ちゃんと不器用な入江くんの夫婦がどんなふうに愛情を育てていくかを書いてみたくて。
今の所順調?ですけれどね。
これからまだ難問山積みというところです。
遊びに来て下さいね~。

るんるんさん、ありがとうございます。

あれだけ毛嫌いしていた琴子ちゃんが、もう完全に恋におちてますもんね。
入江くんもだんだんと意識してきてますし。
入江くんの嫉妬、ちょっと入れてみました(笑)
ぜひぜひ続き楽しんで下さいね!

紀子ママさん、ありがとうございます。

ありがとうございます!
帝大の描写、色々調べて頑張ってみました!夏目漱石の本が役に立ちましたよ~(笑)
ぼっちゃん池、書きながら「ぼっちゃんが池にボッチャン」とかしょうもないギャグを呟いていました。
たぶん医者になる理由をあらいざらい打ち明けたのは琴子ちゃんが初めてでしょうね。あの渡辺くんにもそこまで話していない気がします。
他のみんなは「頭がいいから物足りなくなった」とか適当に思ってくれそうですし。
これから確かに山あり谷ありになる予定ではあります。
そういえば、最近紀子ママさんに「ギブアップ」と言わせていないような…うふ。

彩さん、ありがとうございます。

名前を初めて呼んでもらえましたもんね。
そりゃあ琴子ちゃん、すごく嬉しかったことでしょう。でも入江くんも同じだったと思います。
やっと(少し)素直になれたわけですから。
更新楽しみにしていただけて、うれしいです♪

ゆみのすけさん、ありがとうございます。

そうそう、秘密を明かすということでどれだけ自分にとって大切な人間かということが直樹さんにはまだわかっていないんですよね。
琴子ちゃんは自覚したから行動は素直になっているし。
昔ゆみのすけさんに「琴子ちゃんが直樹を好きだと自覚するところが好き」と言ってもらえたことが今でも私の支えになっております。
今回もそう思ってもらえたらいいな…♪

sarasaさん、ありがとうございます。

ブシュッ!!
ご覧くださいませ、オレンジを片手でつぶして新鮮なジュースを作れるくらいまで鍛えられましたわ♪
めざすはリンゴジュース(笑)
ああ、こんなに腕力つけたらsarasaさんのカモシカのようなおみ足をつぶしてしまうかも(涙)

秘密の共有は恋愛において大事な点ですよね。
これができるってことは、もうお互い大事な存在ってことで!
本当にお似合いな二人です♪
いえいえ、私の方こそsarasaさんのコメントは笑顔の元となっております!いつもありがとうございます!

コメントの件、大丈夫でしたよ~!!

佑さん、ありがとうございます。

入江くん、白衣が素敵ですよね。
きっと琴子ちゃんも惚れ直したことでしょう♪
そう、なんかあるんですこの後に…ふふふ。
でも今回は二人三脚する程度ではない気がします。
いや、それもかなり恋しくなっているのですが。

ぴろりおさん、ありがとうございます。

おバカな私はベーゼの意味を検索してました(笑)
電子辞書に載っていてよかった(笑)

お忙しい中いつもコメントありがとうございます。
最初は入江くんは琴子ちゃんが手を振るのを無視するということにしてたのですが、それくらい反応する優しい入江くんもいいだろうと思って。
直樹スキーなぴろりおさんに萌えていただけてうれしいです。
琴子ちゃんはナンパの意味が分かっていませんもんね。
まったく危なくて放っておけないお嬢様です。

今回は甘々な話だったなあと自分でも思います♪

茉莉花さん、ありがとうございます。

え!!
二位にこの話が!それじゃあ一位はあれですか?なんとなく想像しているのですが(笑)
それにしても、そこまでこの話を気に入ってくださって嬉しいです。ありがとうございます。

アニメ…最終話だけ見たって感じでした!
放送していたのは知っていたのですが、そのころイタキス熱がまだ復活していなくて。
台湾ドラマをきっかけに復活して「そういえばアニメがやっていた」と思いだした時には最終回でした(笑)
プロフィール

水玉

Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
そっと見守っていただけたら嬉しいです。

※当ブログに掲載されている文章及びイラストの無断転載・使用はご遠慮下さい。

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御訪問ありがとうございます
このブログについてのお願い
当ブログは、『イタズラなkiss』の二次創作をメインとしておりますが、時折管理人の趣味や日々の出来事についての記事も書いております。

原作者様や関係各位とは一切関係ありません。

二次創作については、いわゆる原作の隙間をぬった作品もありますが、主人公以外のキャラクターをメインとしたものや オリジナルキャラクターが出てくるものもございます。

そして、原作と違った時代(平安や明治やその他の時代を舞台にしております)、異なる設定(主人公を医者と看護師じゃない職業にしております)で書いてあるものが多いですが、原作を冒涜しているつもりは全くございません。

二次創作が苦手という方及び原作のイメージと合わないと思われる方はどうぞお引き取り下さいますようお願いいたします。

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