日々草子 いとし、いとしと言う心 9

いとし、いとしと言う心 9

長くなったので二話に分けました。









「ここが帝大かあ。」
東京帝国大学の正門前に琴子は立っていた。その手には風呂敷包み。格好は葡萄柄の銘仙に海老茶袴姿。女学院からまっすぐ帝大にやってきたのである。

門の中に一歩入ると、道行く学生が皆琴子をじろじろと見て行く。帝大は女子学生がいないうえ、一目で女学生と分かるその姿が珍しがられているのだった。

しかし好奇の視線など琴子には気にはならなかった。むしろその雰囲気を楽しんでいた。
「何か帝大構内を歩いているだけで、頭が良くなった気分がするわ。」
少しでも賢くなるようにと、琴子は深呼吸をした。

「法学部の校舎ってどこかしら?」
ひとしきり雰囲気を味わった後、琴子は周囲を見回す。思い切って直樹を訪ねてきたのである。
想像以上に広い構内に、琴子は困り果てた。

「琴子ちゃん?」
そこに救いの神が登場した。
「渡辺様!」
ちょうどいいところに直樹の親友、渡辺が通りかかった。
「久しぶり!」
渡辺と会うのは二度目であった。
「この間は、見苦しい所をお見せして。」
琴子は先日、直樹と喧嘩した事を先ず謝った。
「いやいや、あれは入江が悪かったよ。」
「ですが。」
「気持ちよかったよ。あの入江が人に殴られるのを目撃してさ。」
「渡辺様ったら!」
渡辺の親しみやすい言い方だと、嫌味に聞こえないから不思議である。

「今日は入江に?」
「はい。あの…これを作ったものですから。」
琴子は手にしている風呂敷包みに目を落とした。その中には勉強道具の他に、琴子が調理実習で作ったパウンドケーキが入っていた。
直樹に食べてもらいたいと思い、思い切って帝大へやってきたのである。

「渡辺様、直樹さんと同じ法学部でしたよね?」
「あ、うん。」
「法学部の校舎はどちらでしょう?直樹さん、そちらにいますよね?」
「うん、そうだね…。」
渡辺が辺りを見回した。
「私と一緒にいると、御迷惑でしょうか?」
琴子は心配になった。
「でしたら、場所さえ教えて頂けたら私、一人で…。」
「いやいや、そんなことないよ。」
渡辺は手を振った。
「とりあえず、座ろうか?琴子ちゃんも慣れない場所で疲れたんじゃない?」
渡辺は傍にあったベンチをさした。二人は並んで座った。



「そういえば入江から聞いたのだけれど、二人で服部の墓参りに行ったんだって?」
「はい!」
お彼岸ということで、入江家の墓参をした後に二人で服部の墓参りをしたのだった。
「琴子ちゃん、お墓に向かって元気よく挨拶したって?」
ニコニコと笑いながら渡辺が話すと琴子は、
「そこまで直樹さんお喋りしたのですか?」
と赤面してしまった。
確かに渡辺の言うとおりであった。
「初めまして!入江琴子です!」
とお墓に向かって頭を下げた琴子に直樹が、
「馬鹿、そんなに大声で挨拶する奴がいるか。」
と叱った。お彼岸なので同じように墓参に来ていた人々がクスクスと笑いながら二人を見ていた。

「だって、紹介してもらえてすごくうれしかったんです。」
「そう思ってもらえて、俺も嬉しいよ。」
自分たちの親友を琴子がそこまで心を寄せてくれていることが、渡辺は嬉しかった。
「きっと入江も喜んでいると思うよ。」
「だといいのですけれど。」
「絶対そうだよ。あいつが服部の話を俺以外にするのなんて見たことないし。」
「渡辺様。」
琴子は渡辺を見た。
「何だい?」
「あの…私がお邪魔しても大丈夫なのでしょうか?」
「お邪魔?」
「服部様は渡辺様にとっても大切な方でしたでしょ?私が服部様の思い出に立ち入るようなことをして渡辺様はご不快には…。」
「そんなこと、全然ないよ!」
渡辺は笑った。
「むしろ嬉しいよ。入江や俺の親友をそこまで思ってくれて。自己紹介までしてくれたんだもん。」
「そうですか。」
琴子はホッとした。
「服部だって喜んでいるさ。入江が自分の細君を紹介してくれたことを空で大喜びしていると思うよ。」
それから、二人は何の気なしに空を見上げた。秋の空は澄み渡っている。



「何か…直樹さん、まずいことでもあるのですか?」
服部のことは別として、先程からの渡辺の態度に琴子は疑問を感じていた。何となく案内することに時間を稼いでいるような気がしてならない。
「もしかして、居残りとか?」
「いや、まさか!」
「そうですよね、直樹さんに限って。」
琴子はホッとした。自分じゃあるまいし。直樹は一高、帝大と首席だったと聞いている。

「お、渡辺!」
二人の前に、学生服姿の学生と書生姿の学生が通りかかった。
「何だよ、可愛いメッチェン連れて。」
「ばあか、違うよ。」
冷やかす学友に、渡辺は笑って答える。
「入江の細君だよ。」
「え!入江の!?」
二人は珍しいものを見るかのように琴子を見た。琴子は恥ずかしくて俯いてしまった。



「あの…メッチェンとは?」
学生たちが去った後、琴子は渡辺に訊ねた。
「ああ、ドイツ語でね、“少女”って意味なんだ。あいつらも僕も高校で理乙…理系でドイツ語を選択していたんだよ。」
「ドイツ語、すごい!」
「ドイツ語選択者は日常会話の中にもドイツ語を交えることが多いんだ。さっきのメッチェンもそうだし、あとはありがとうという時にダンケって言ったり。」
「さすが帝大ですね!」
自分など女学院の英語の授業すら大変で、とても会話をすることなんて考えられない。さすが帝大生だと琴子は感心した。



「入江の細君が来ているって!!」
どこから来たのか、学生たちが大勢わいてきた。先程の二人が言いふらしたらしい。
「あの天才の奥方かよ!」
「どれどれ?うわ、女学生じゃねえか。入江やるな。」
「可愛いなあ、あのほっぺ。銀座の木村屋のあんぱんみたいだ。」
次から次へと琴子へと言葉が浴びせられる。

「ほらほら、お前ら静かにしろ。」
渡辺が両手を動かして男たちを遠ざけようとする。が、まだ独身が多い学生たちは入江直樹の妻に興味津津なのでなかなか離れようとしない。

「今日はご亭主に会いにきたの?」
「はい。」
最初こそ驚いたが、皆親しみやすいし自分への悪意も感じられない。なんといっても天下の帝大生なのである。いつしか琴子に笑顔が浮かんでいる。
「あれ?でも入江って確か…。」
学生の一人の言葉に、渡辺が顔色を変えた。
「ほら、お前たち。さっさと散れ。」
「あ、そうだな。」
渡辺の言葉に学生たちが顔を見合わせた。
「俺、図書館に行くんだった。」
「俺は教授の元へ。」
「それじゃあね。」
学生たちは急に取りつくろったような態度で、琴子たちから去って行った。



「まったくあいつらは…ごめんね、琴子ちゃん。男ばかりだから女の子が珍しいんだよ。みんな餓えていてさ。」
謝る渡辺に、琴子は訊ねた。
「あの、やっぱり直樹さんは何かあるのでは?」
「え?」
「留年とかの危険があるとか?」
「まさか!あいつは一高から一等以外取ったことのない男だよ!」
「ですが…。」
まだ琴子は不安だった。やはり渡辺は何かを隠している。いや渡辺だけではない、ほかの学生たちも皆が何かを自分に隠していることは間違いない――。



「…悪かったな、渡辺。」
二人の背後から声が聞こえた。
「直樹さん!」
振り返った琴子の目は大きく見開かれた。

「あとは俺が話すから。」
直樹は、制服の上に白衣をまとっていた。



――法学部の勉強って、白衣がいるのかしら?
直樹の後をついて歩きながら琴子はそんなことを考えていた。その直樹からはかすかに消毒液の香りがする。

「座るか。」
直樹が琴子を連れてきたのは、大きな池のほとりであった。大学の構内にこのような池があるとは。
「そういえば…。」
琴子はふと思い出した。
「この池って、坊ちゃん池でしょう?」
「坊ちゃん池?」
先にベンチに座った直樹が怪訝な顔をした。
「ええ。ほら、誰だったっけ、ええと…。」
琴子は手をポンと叩いた。
「そうそう、森何とかって人!その人が書いた『坊ちゃん』って話で、主人公の坊ちゃんがはまった池なんでしょ?そこから坊ちゃん池って呼び名がついたのよね?」
「森何とかって、森鴎外か?」
「そう、その人!」
「森鴎外は『坊ちゃん』は書いてない。坊ちゃんを書いたのは夏目漱石だ。」
「あ、そうだったっけ?」
「そして『坊ちゃん』は舞台は松山。この池の呼び名は三四郎池。夏目漱石の『三四郎』の主人公三四郎とヒロインが出会った池として登場したからその呼び名がついたんだ。坊ちゃんが池にはまるって何だよ、それ?」
「あら、ちょっとした勘違いよ、勘違い。」
「ハハハ」と頭に手をやって笑う琴子を直樹は呆れた顔を向けた。



「直樹さん…。」
笑い終わった後、琴子が口を開いた。
「…俺はもう法学部の学生じゃないんだ。」
いつものように、長い足を組みそれを直樹は抱えた。
「大学をやめたということ?」
だったらここにいるわけないのではと、琴子の頭の中は混乱してくる。。
「いや、帝大生であることは変わりない。学部を変えたんだ。」
「学部を変えた?」
「ああ。この春から俺は医学部に在籍している。法学部から編入したんだ。」
「医学部…ということはお医者様になるということ?」
「なれればね。」
春から在籍ということは、自分と結婚する前にはすでに編入していたということかと琴子は考えた。

「渡辺たちの態度がおかしかったのは、俺がみんなに医学部へ移ったことを黙っておいてくれと頼んでいたからだ。」
「どうして?」
「父上にばれたら大変なことになるからな。」
「お義父様に?」
重樹にばれたら何が大変なのだろうかと琴子は不思議に思った。
「お義父様が反対されるということ?」
直樹は頷いた。
「父上は俺を事業の跡取りにするつもりでいるからな。だから高校から事業を手伝わせたりしたわけだ。その俺が後は継がない、医者になるなんて話したらどう思う?」
「お義父様は賛成して下さるんじゃない?」
すると直樹はフッと笑った。
「そんなにうまくいかないよ。」
「そうかしら…?」
「ああ。俺たちの結婚を考えたってそうだろ?父上は俺が跡を継ぐと思っているからこそ、同じ貿易の仕事をしている相原家からお前を嫁にもらったんだ。」
直樹の言葉で、琴子は自分たちの結婚が政略の意味合いが強いことを気づかされる。それは琴子の胸にかすかな痛みとなった。

「つまり父上は俺の将来への道を着々と作ってきたわけだ。父上が懸命に作り上げてきたその道を俺は木端微塵にしようとしている。いや、もうしているんだ。」
直樹は両手を頭の下に置きベンチの背もたれに体を預けた。

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『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
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