日々草子 いとし、いとしと言う心 7

いとし、いとしと言う心 7



「琴子ちゃん、最近元気がないわねえ。」
居間で新聞を広げている直樹を横目にしつつ、紀子が溜息をついた。
「あなた、何かしたの?」
「冗談じゃない。」
直樹は乱暴に新聞をたたむ。
「拾い食いでもして腹でも壊したんじゃないの?」
裕樹がケケケと笑うと紀子は「これ!」と叱りつけた。



「また来ちゃった…。」
琴子はまた、例の女性の家の前に立っていた。
あれから毎日のようにこの家に通っていた。が、何ができるわけでもない。物陰に隠れてこっそりと数寄屋門を眺めているだけだった。その門には『服部』という表札がかかっている。
また直樹が訪れるのではないかと、琴子は恐る恐る待っていた。しかしもう通い続けて十日になるが直樹の姿が現れる気配はない。
「何をしてるんだろ、私。」
女学校から真っ直ぐ来ては一時間ほどここで過ごす日々だった。
あの家の中に直樹に笑いかけてもらっている女性がいる。どうしてその笑みは自分に向けられないのだろう。そして直樹と女性が親しくしているところを想像するだけで、胸が痛くなってしょうがない。
「帰ろうか…。」
今日もどうやら直樹が姿を見せる気配はない。琴子が帰ろうとした時だった。

ポツッ、ポツッ…。

空から冷たいものが落ちてきたと思ったら、あっという間に辺りが真っ暗になり激しい雨が地面を濡らし始めた。
「雨宿りしないと!」
ここから入江家はまだ距離がある。とても走って帰れそうにない。琴子は雨を避ける場所を探したが、服部家の門の軒下しか見当たらなかった。仕方なくその下へ逃げ込んだ。

ゴロゴロ…ピカッ!!!

「ひゃあっ!!」
雷に琴子は耳を塞いだ。
「お、落ちないでしょうね…。」
これでは雨が小降りになっても帰る勇気が出ない。
困り果てて琴子が空を見上げていると、
「もし…。」
と声が聞こえた。
振り返ると、格子戸向こうからあの女性が笑いかけている。
「よろしければ、宅で雨宿りをされてはいかがでしょう?」
「え?」
「まだ雨は当分やみそうもありませんし。ね?」
まさか本人から声を掛けられ、家の中へ招き入れられるとは。琴子はどうしていいか困った。
「女性の一人暮らしですから、どうぞ。」
そこまで言われ断ることもできない。確かに雨で困っていることは事実である。
「ではお言葉に甘えて。」
一体どうなるのかという不安を抱きつつ、琴子は女性が差し掛けた傘の中に入ったのだった。



部屋の中央には黒檀のテーブルが置かれていた。床の間には彼女が活けたのだろうか、美しい花が花瓶に活けられている。
「お着替えしなくて大丈夫かしら?」
「大丈夫です。」
女性は丁寧に琴子の着物を拭いてくれている。途中で女中が二人分のお茶を運んできた。

「さ、どうぞ。」
「…いただきます。」
美濃焼の湯飲みに琴子は口をつけた。女性がにこやかにそれを見ている。
飲みながら琴子は女性の姿を見つめた。年齢は自分よりは上であろう。ひょっとしたら直樹よりも上かもしれない。
先日見た蕗谷虹児の絵の女性そのものだと、琴子は思った。萩模様の銘仙の着物に、髪には鼈甲の飾り物が美しく似合っている。

「どちらの女学生さんかしら?」
女性に問われ、琴子はハッとなった。琴子は海老茶袴姿に蝶が舞う銘仙を合わせている。それは琴子のお気に入りの一枚であるのだが、彼女には到底及ばない。髪の毛にいたってはマーガレット型に大きなリボン。幼く見られているのだろうなと思うと恥ずかしくてたまらなくなった。
「斗南女学院のい…相原琴子と申します。」
つい旧姓を名乗ってしまった。
「私は服部みさをと申します。」
みさを――それはまた、女性に似合った名前だと琴子は思った。



「この間から、うちの前にいらしてましたわよね?」
「え!?」
思わず湯呑を落としそうになった琴子は慌ててそれをしっかりと握った。
「フフフ。」
みさをは怒っている様子はない。むしろ楽しげである。
「うちに御用なのかしら、だったらなぜいらっしゃらないのかしらって女中と話していたのですよ。」
「すみません!」
「いいえ。こんな可愛らしいお嬢さんだったら、おいたはしないだろうってそのままにしておいたのですが。でもこうしてお話できてよかったわ。」
みさをは新しいお茶を淹れてくれた。
「それで、うちに何か御用だったのでしょうか?」
「あの…。」
琴子は考えた。そこまで見られていたのなら通りすがりなどという言い訳は通用しまい。

「あの…直樹様がこちらにおいでですよ…ね?」
「直樹様?」
みさをが怪訝な顔をした。琴子が直樹とどういう関係か訝しんでいるのだろうか。
「入江直樹様のことです。ええと、私はその…直樹様の乳母の娘でして。」
咄嗟に琴子は考えた。
「直樹様がこちらのお宅にうかがっていることを母が知りまして、大事な坊ちゃまが心配だとうるさいものでして。」
「まあ、お乳母さんが。」
「でも」とみさをは首を傾げた。
「あなた、斗南女学院に通っていらっしゃると仰いましたわよね?あちらは確か華族様のご令嬢が多くて…。」
「え?あ、それは、紀子様のご厚意で通わせていただいているんです。」
よくもまあこう嘘ばかり口から出せるものだと、琴子は自分に驚いていた。
「入江様のお母様…そうですか。」
みさをは漸く納得したようだった。
「そうね。入江様のお母様でしたらさぞお優しい方でしょうから。」
琴子は不思議に思った。今のみさをの口ぶりでは「優しい直樹の母だったら紀子も優しいだろう」という感じだった。

「直樹様のことをよくご存知の…ようですね。」
琴子は何とか笑顔を作った。最後まで乳母の娘の演技を続けねばならない。大丈夫、雇い主の息子を心配する使用人のふりを続けられる。
「ええ。そうですわね…五年くらいのお付き合いかしら?」
「そんなに!」
琴子は数えた。五年前というと直樹は十六歳。高校生からの付き合いになるではないか。
きっと二人は愛し合っているに違いない。何からの事情で結婚が許されず、直樹は自分と結婚する羽目になってしまった。だとしたら、自分は身を引こう。琴子はそこまで考えてしまっていた。

するとみさをは、ついと立った。優雅な仕草でふすまを開けすぐ続いている隣の部屋へと入った。
「こちらへいらしていただけますか?」
みさをに手招きされ、琴子も移動する。そこには仏壇があった。
「ご覧になって。」
みさをは仏壇から写真立てを取り上げ、琴子へと渡した。そこには制帽制服姿の男性が笑っていた。
「…弟です。」
みさをが静かに告げた。確かにみさをと顔が似ていた。


二人は再び黒檀のテーブルを挟んでいた。その上にはみさをの弟の写真が置かれている。
「入江様と渡辺様は弟と一高で寮が同室でした。そのご縁で仲良くなったそうです。」
みさをは弟の写真を愛おしそうに撫でた。
「三人ともクラスも同じ理乙で、大学も帝大志望ということで。この家で勉強合宿だなんて騒いだこともあったんですよ。」
当時を思い出したのか、みさをは笑い声を立てた。
しかし、
「でも…。」
と、すぐにその美しい顔を曇らせた。
「三年前に…帝大に入学してすぐにここを病みまして。」
みさをは自分の胸に手を当てた。
「うつるからと何度も申し上げたのですが、入江様も渡辺様も平気だと仰って、暇を見つけては弟を見舞って下さいました。渡辺様は大学の楽しいお話をたくさんして下さって、弟を笑わせて下さって。そして入江様は…。」
みさをは仏壇から運んできた紫の風呂敷包みを琴子の前でほどいた。
「こちらを作って持って来てくださいました。」
それはノートだった。五冊はあるだろう。

「どうぞ中をご覧になって。」
みさをに勧められ、琴子は丁寧に開いた。中には几帳面な文字がぎっしりと書かれている。
「三人とも同じ法科でした。入江様は授業のノートを一日も欠かさず弟のために作って下さったのです。」
「一日も…欠かさず…。」
「ええ。弟がもう大学へは戻れないと分かったので…私たち姉弟はノートはもういいと申し上げました。しかし、入江様は“落第することになったらどうするんだ”と笑ってやめようとされませんでした。そのノート作りは…。」
そこでみさをは、袂から白いハンカチを取り出し目に当てた。
「…弟が亡くなる前日まで続いたのです。」
琴子はノートの文字が歪んで読めなくなっていた。その理由が頬を伝っている涙のせいだと分かり、大切なノートを汚してはならないと慌てて自分から離した。

雨はいつの間にか上がっていて、陽射しが服部家の庭に降り注いでいた――。





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また一つ直樹さんの優しさが伝わりましたね。
私も直樹さんの優しさにびっくりでした。
この展開はさすがに想像外でした。えへへっ
さあ!!琴子ちゃんはこの優しさの虜になっちゃうかな??

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ぴろりおさん、ありがとうございます。

お忙しい中コメントありがとうございます♪
体調いかがですか?どうか無理なさらないで下さいね。

今回の謎の女性、皆さんお嬢(これも色々呼び方があって面白いのです)と思われたようで。
残念ながら?違っていたのですけれど(笑)
入江くん、実は超がつくいい人だったエピソードを作ってみました。
そういえば二次を始めたばかりのころはそんなエピソードを書いた覚えがあったなあと懐かしくなりました。
今回は一応オリジナルなので、色々工夫して楽しんでおります。
琴子ちゃんだったら、きっとノートを汚さないようにするだろうと思ってそういう描写にしてみました。

大正ロマン、なかなかその雰囲気が出ないんですよ~。
いっぱい資料読んで参考にしているのですが、やっぱり即席の知識じゃだめですね。
だからぴろりおさんに感じが出ていると言っていただけて嬉しかったです。
終わっちゃイヤだなんて…嬉しいことを!!

紀子ママさん、ありがとうございます。

こちらはゾンビ元妻(笑)本当にバラエティ豊かな呼び名だ(笑)
残念ながら違ったんですよ~。
もしみさをさんと入江くんが本気で愛し合っていたら、琴子ちゃんだったら身を引きそうですよね。
最初の「喜んで身を引きます」じゃなくて入江くんの幸せを願って引きそうです。
琴子ちゃん、気になって家の周囲をうろつくってそれは恋している証拠なのよ~と言いたい。
友達思いの入江くん、お気に召してよろしゅうございました。
妄想勘違い娘の琴子ちゃんの暴走も、ちょっと見てみたいかも!

佑さん、ありがとうございます。

ありがとうございます!!
うふふ、実はこの間の佑さんの「きりっ!」がとても好きなんです~。
機会があったら、ぜひまたコメントで使って下さい♪

sarasaさん、ありがとうございます。

sarasaさんの細い足首をつかんだら二度と離さないよう、手首の筋トレを開始した水玉でございますぅ~。
こちらも想像は沙穂子嬢だったのですね。もう皆さんそんなにお嬢様の登場が楽しみなんですね。しょうがないなあ(笑)

ただの琴子ちゃんの勘違い騒動かと思いきや、ちょっと今回は趣向を凝らしてみましたの。
いかがでしたか?

琴子ちゃんは絶対見つかりますよ。頭隠して尻隠さずじゃないですけれど、どこか抜けていそうですもん。
でも見た目が悪人面じゃないから、疑われることはなさそうですけれどね。

楽しみにして頂けているようで、うれしゅうございます。
さ、今宵も筋トレを…おいっちにーさんしー!

ゆみのすけさん、ありがとうございます。

も~ゆみのすけさんのえへへっは可愛いなあ!!
たまらないわ~←なんかあやしい人全開。

今回は直樹さん、色々と優しさを振りまいております。
これじゃ琴子ちゃん、夢中になってしまいますよね!

想像外な展開、この先も書ければいいのだけれど!

おばちゃんさん、ありがとうございます。

そんなことないです!
気分なんて害していませんよ!私の方こそ、何か気づかないうちにおばちゃんさんの気分を害してしまったのではないでしょうか?もしそうだとしたら、申し訳ございません。
おばちゃんさんも沙穂子さんだと予想していたんですね。
プロフィール

水玉

Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
そっと見守っていただけたら嬉しいです。

※当ブログに掲載されている文章及びイラストの無断転載・使用はご遠慮下さい。

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御訪問ありがとうございます
このブログについてのお願い
当ブログは、『イタズラなkiss』の二次創作をメインとしておりますが、時折管理人の趣味や日々の出来事についての記事も書いております。

原作者様や関係各位とは一切関係ありません。

二次創作については、いわゆる原作の隙間をぬった作品もありますが、主人公以外のキャラクターをメインとしたものや オリジナルキャラクターが出てくるものもございます。

そして、原作と違った時代(平安や明治やその他の時代を舞台にしております)、異なる設定(主人公を医者と看護師じゃない職業にしております)で書いてあるものが多いですが、原作を冒涜しているつもりは全くございません。

二次創作が苦手という方及び原作のイメージと合わないと思われる方はどうぞお引き取り下さいますようお願いいたします。

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