梅雨寒の日の出来事
私も青い入江くんに挑戦してみた…つもりです(断言できないところが水玉クオリティ)。

もうそろそろ梅雨も明けるはず。それなのに今日は気温が低かった。
ここ数日は30度を越して、うちも今年初めてのクーラーだとおふくろが騒いでいたというのに。
学校帰りの電車の中から見える電光掲示板には「ただいまの気温 23度」と表示されていた。どうりで涼しいわけだ。
これは体調を崩さないようにしないとと思いつつ、改札を出た俺の目の前には見覚えのある奴が歩いていた。
家では「暑いなあ」と言いながら結んでいた髪も、学校に行くときは背中に垂らしている。その長い髪の後ろを俺も自然と歩くことになる…帰る先が同じなのだからしょうがない。
どうやら奴もこの気温に困っているらしい。いつもはまくりあげている長袖の白いシャツが今日は下ろされている。時折腕を摩っている所を見ると、結構こたえているらしい。
ちんたらちんたらと歩いている奴の側を、俺はサッと通り過ぎる。
「あ、入江くん!!」
…チェッ、見つかったか。ボケッとしているから気づかないと踏んだのに。
「入江くんも帰り?同じ電車だったのかなあ?」
「…どうでもいいじゃん。」
俺は素っ気なく答えた。
「そうだよね。どうせひとつ屋根の下で暮らしているんだしねえ。」
あいつの大声に、道行く人間が俺たちを興味深そうに見る。
「…誤解されることを口にするなと言ったよな?」
「ごめんなさい。」
エヘへと笑っている所を見ると、絶対また繰り返すだろう。馬鹿はしょうがない。
「今日寒いねえ。入江くん、大丈夫だった?」
「まあね。」
「そっか。私なんて寒くて寒くて。」
「皆そう言ってたよ。」
「うん、そうなんだけど。でもこの寒さ異常じゃない?」
「まあこの時季にしては…。」
と言いかけて、俺はふと思った。
さっきからこいつは「寒くて」と言っている。確かに気温は低いが「涼しい」というレベルだと思うが。
「何か授業中もね、歯がガチガチって鳴っていて。」
俺は足を止めた。
「ぶっ」と変な声と共にこいつ、琴子が俺の背中にぶつかった。
俺は気にせず顔を後ろへと向けた。
「どうしたの?」
琴子は鼻を押さえつつ俺の顔を見る。が、その直後に「コンコン」という咳をした。
「お前、風邪引いたんじゃねえの?」
「風邪?そんなことないよ?」
琴子はまたヘラヘラと笑いながら手を振った。しかしその後にやはり「コンコン」と咳をしている。
「咳してるじゃん。」
「あ、これ?これはね、今日は二回も当てられて教科書読んだからだよ。国語と英語。」
「一時間ずっと読ませられたのか?」
「まさか!そんなわけないじゃない。ちょっとだけよ。」
「だよな。だけどそのちょっとだけ教科書読ませられたくらいで痛めるような、繊細な喉をお前が持っているとは思えないけど。」
「失礼ね。あたしの喉はデリケートなのよ。歌えばカナリヤも寄ってくる…ああ~♪」
調子に乗った後、琴子は「ゴホゴホ」と更にひどい咳をした。間違いない、こいつは風邪を引いたんだ。
「それにしても、また気温が下がったんじゃない?」
琴子は腕を押さえるようにブルルと震える。寒いってことは今熱が上がっているところか。
「南極って感じ?」
「南極はそんな薄いシャツ一枚で歩けねえよ。」
「そっか。」
またヘラヘラと笑う琴子。ったく。
「ほら。」
俺は鞄からジャージの上着を取出し、琴子の頭へと放り投げた。
「家まで着てろ。」
「え?これって入江くんのジャージ?」
紺色のそれを頭から取ると、琴子はしげしげと見た。
「俺は他人のジャージを持って帰る趣味はない。」
「あ、そっか。そうだよね。」
ジャージの胸元には『入江』と名前が刺繍されている。琴子はそれを見ると「本当に入江くんのジャージだ」と笑った。
「でも悪いよ。」
この期に及んで何を遠慮しているのか、琴子は俺にジャージを突っ返してくる。
「いいよ。着てろ。」
「でも…。」
「お前の風邪がそれ以上悪化すると、俺が困るんだよ。」
「入江くんが困る?何で?」
「お前が寝込むと、おふくろはお前につきっきりで看病するだろう。そうなると俺たちの世話なんてコロッと忘れちまうだろうからな。」
何だ?このとってつけたような言い訳は。なぜ俺がこんな言い訳をしなければいけないんだ?
ジャージを貸したことがなぜだか妙に照れくさくて、俺は変なことを言っている。
「分かったら着てくれ。」
「…ありがとう。」
琴子はジャージを羽織った。
「えへへ、入江くんのにおいがする。」
「気持ち悪いこと言うな。」
「えへへ。」
俺は先へと行くことにした。
琴子より少し先を歩いていると、あることに気づいた。
「ね、あの子…何だかすごい格好。」
「あれも若い子のおしゃれってやつかしらね?」
どうやらジャージを羽織った琴子に視線が集まっているらしい。俺はちょうど通りかかったコンビニのガラスに映っている後ろの琴子を見た。琴子は気づかず俺のジャージを嬉しそうに着ている。
「入江くん、どうしたの?何か落とした?」
突然止まった俺にまた琴子は驚いた。
「別に。」
何となく俺は琴子の傍に立ち、歩き始める。歩調を琴子に合わせて。
そして琴子をおかしそうに見る通行人に睨みをきかせる。すぐに静かになった。
ったく、どうして俺がこんなことをする羽目になるんだか。
こんな奴、何をどう言われても平気なはずだってのに。ただ、俺のジャージを嬉しそうに着ているこいつが、他人に笑われるのが腹が立って仕方がなかった。
注目もされなくなったことだし、置いて帰っても…。
俺はチラッと横の琴子を見た。さっきよりますますしまりのない顔になっている。
今のこいつは「お薬あげるからついておいで」とか声かけられたら絶対ついて行くに違いない。
いや、こいつだって馬鹿だけど高校三年生だ。そこまでだまされることは…。
俺はまた横目で琴子を見た。俺と目が合いニパッと笑う。…だまされそうだ。
「あたし、熱はないと思うの。」
「あるだろう。」
「ないわよう。」
口調が段々とフニャフニャし始めた。こりゃ相当悪化したな。
俺は琴子の前髪をやや乱暴に掻き上げると、自分の額を琴子に額につけた。
「熱い!お前、あるなんてもんじゃねえぞ!」
額は燃えるように熱かった。
「ったく、これは帰ったら病院へ…。」
俺がそう言った時、琴子はクラクラと倒れてしまった。
「おい!!」
「ったく、何で俺がこんな目に…。」
「…ごめんね。」
倒れた琴子をそのままにするわけにいかず、俺は背負って歩いていた。
「だって入江くんのおでことあたしのおでこがゴッツンコしたんだもん。だからね、熱があるわけじゃなくて嬉しさのあまりに…。」
「熱だ!いい加減認めろ!!」
この期に及んでまだ認めないのか、こいつは!
「あ、でもね。たとえ熱があったとしても、おばさんに世話してもらわなくても大丈夫だから!だから入江くんは安心しておばさんにご飯作ってもらってね。」
「いいよ、それはもう。」
「でも、それが困るってさっき…。」
「子供じゃないんだから自分で何とかできるよ。」
「そ、そう?」
琴子が話すたびに、俺のうなじに熱い息がかかる。
「あ、それじゃあ。」
「お前、風邪のくせに口は止まらないんだな。」
「入江くんが風邪を引いた時は、あたしが看病するね。」
「断る。」
「何で?」
「お前に看病されたら、再起不能になりそうだから。」
「え?何?才気煥発になる?」
「…お前、熱ある時は頭が回るらしいな。」
普段絶対出てこないような四字熟語が琴子の口から飛び出した。ったく、本当に口だけは達者だよ。
「入江くんのジャージ、洗って返すから。」
「当然。風邪のウィルスをそんなにべったりとつけられたんだから。」
「あのね、あのね。理美が言ってたんだけど。」
「理美?ああ、バカトリオのうちの一匹か。」
何でここにお前の友達が出てくるんだ?話が飛ぶ奴だな。
「理美ってね、ブラとか手洗いなんだって!」
…俺に何と返事をしろと?「へえ、そうか。それは大変だなあ」とでも言えと?
「だからね、入江くんのジャージもあたし、手洗いするから!」
「いいよ、別に。」
ああ、そういうところに着地するわけか。やっぱりこいつの話はついていくのがやっとだな。
「ちゃんとね、おしゃれ着洗いのオマールで手洗いするからね。」
「いいって。そんなの洗濯機に放り込んでおけば勝手に洗ってくれるから。」
「だめよ!」
琴子が背中で暴れ出す。
「おい、動くな!落とすぞ!」
「あ、すみません。」
琴子はおとなしくなったと思ったら「ホームクリーニングのオマール♪」とどっかで聞いたことのあるような歌を歌う。
そして俺はやっとの思いで家へと到着した――。
案の定、琴子は三日間寝込むことになった。
「入江くん、本当にありがとう。」
きちんとたたんだジャージを、すっかりよくなった琴子が俺に差し出した。
「ちゃんとオマールで手洗いしたからね!」
「どうりで洗面所がびしょびしょだったわけだ。」
今朝方、洗面所の所を通った時、豪快な水の音が聞こえていたからもしやと思ったが。
俺はジャージを受け取ると「それじゃ」と部屋のドアを閉めた。
ジャージからはいつもと違う洗剤の香りがした。なるほど、これがオマールの香りってわけか。
…待てよ?
あいつ、妙なことを言ってたよな。バカトリオの一人が何かを手洗いしてるとか。
てことは、あいつもその類の物を手洗い…オマールで洗っているってことか?
そうなると、このジャージの香りはあいつのそれと同じ香り?
それを考えた俺の中で甘酸っぱい気持ちが広がる――。
しかし――。
「琴子ちゃん、本当にいいの?」
「いいんです、いいんです。」
とある日曜日の朝。洗面所からおふくろと琴子の声が聞こえた。どうやら洗濯をしているらしい。
「だっておばさん、見て下さい。あたしのブラって飾りも何もないんですよ?」
「でも…それって一応オマールで洗った方がいいんじゃないのかしら?」
「そんな必要ありませんって!ほら、綿96%にポリウレタン4%。レースとか全然ついてないし!こんなの洗濯機でガンガン洗えますもん。」
「あ、それじゃあ琴子ちゃん!一応ネットに入れたら…。」
「必要ないですよ!アハハ!」
…何だ、今の会話は?
ということは、あいつはあれをオマールで洗ってないってことか?
洗濯機でガンガン?
ちょっと待ってくれ。あの時の話の流れだと、お前もそれを手洗いしているって言いたかったんじゃねえのか?
…俺の甘酸っぱい気持ちをどうしてくれるんだ?
そしてそれから一年後。
俺は廊下に落ちていたあいつのパンツを偶然拾い上げることになる。本当に手洗いなんて必要のない、洗濯機でガンガン洗ってもへたれないようなそれを見た途端、俺はジャージのことを思い出し…つい八つ当たりをしまうことになるのである――。