日々草子 マドモアゼル・カメリア 18

2012.05.02 (Wed)

マドモアゼル・カメリア 18


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「…遠ざかる船を追いかけて海に飛び込もうかと思いました。ですが追いつくわけがない。」
彼は自嘲気味に笑った。
「最後の望みの綱が断たれてしまった。これで彼女はもうだめだと俺は絶望のどん底に突き落とされました。」
彼がそう考えることは当然だと、私は思った。そしてテーブルの上のマドモアゼル・カメリアのポートレートに目を落とす。こんなに愛された彼女がうらやましいくらいだ。
「…私は悔やみました。」
彼はテーブルの上で長い指を組んだ。
「あの時あの苦しんでいた女性を無視すれば彼女は助かったかもしれない。どうして助けてしまったのだろう。見ないふりをして走り去ればよかったものを。」
「ですが、あなたは医者だった。」
私の言葉に彼は頷いた。
「彼女は医者の私を愛してくれたから、医者としての義務を果たすことを選ぶべきだと思ったのです。」
彼は間違っていなかったと私は思う。
「私は港に呆然と立ち尽くしていました。私ができることは、私の想いを彼女に伝えることだけだと思いました。だから早く彼女の元へ帰ろう、そう思っているのに足がまるで鉛になったかのように重くなり、動かなかったのです…。」



************



直樹は手に持っていた下駄を地面に落とした。カランカランと乾いた音が響いたが直樹の耳にはほとんど届かなかった。
これでもう、琴子を助ける手立ては全てなくなった。自分にできることはもう何もない。

「…失礼。」
直樹の背後に男性の声が聞こえた。こんな時に一体何だろうか。もし道を尋ねてきたのならば適当にあしらってやる。直樹はそう思い振り返った。
そこに立っていたのは外国人の男性だった。銀髪に鼻の下にひげをたくわえ、たくましい体躯を灰色の背広で包んでいた。
「失礼ですが…あなたはもしやヘル・イリエ?」
「ヘル」…直樹の脳裏には「Herr」というドイツ語の綴りが浮かんだ。ドイツ語で男性につける尊称の意味。
「…Ja(はい)。」
直樹はドイツ語で返答する。すると男性の顔が輝いた。
「やはりそうでしたか。私はバッベルです。」
「バッベルというと…バッベル博士ですか!?」
目を大きく見開いた直樹の前で、バッベル博士は頷く。
「そうです。オオハラの友人のバッベルです。」
彼こそ、直樹が会いに来た大原医師の知人のドイツ人医師だったのである。

「ですが…どうして?」
直樹は海を見た。バッベル博士を乗せたはずの客船はもうはるか彼方に消えかけていた。
「オオハラが言っていました。私に会いに来るのはイリエという若い男性だと。彼は何が会っても絶対私に会いに来ると。」
「大原先生が。」
「そうです。オオハラと私は共にドイツで学んだ無二の友人なのです。オオハラがどんな人物か私はよく知っています。責任感が強く誰よりも患者を助けたい気持ちが強い彼の言葉を私は信じていました。だからあなたが姿を見せなかったことが不思議でした。これは何かあなたの身に起きたのではないだろうかと心配になりました。そして妻と話し合った結果、私たちは帰国を遅らせることにしたのです。」
バッベル博士の傍には夫人が微笑んでいた。
「そしてあなたは来た。よかった。」
「…ありがとうございます。本当にありがとうございます。」
直樹は何度も何度も、バッベル博士夫妻に礼を述べた。
「患者はあなたにとって大切な方なようですね。」
バッベル夫人が直樹に微笑んだ。
「…私がこの世で一番愛している人間なのです。」
「それでは早く行かねば。」
「急ごう」と博士が直樹の背中を押した時だった。

「いたか?」
「こっちか?」
男たちの声が聞こえ、直樹はすかさず博士たちの腕を引いて身を隠した。そっと覗くと大泉の手の者たちが直樹を探していた。
どうやら直樹が横浜まで来ていることがばれてしまったらしい。

「ヘル入江?一体これは?」
「事情は後でご説明します。」
緊迫した直樹の様子に、博士は何かを察したようだった。

「博士…。」
少し時間を置いた後、直樹は決意した。
「私は今から彼らの前に姿を見せます。その隙にこの場所へ向かって下さい。」
直樹はドイツ語で書いたメモを博士に渡した。それは入江の事業会社の横浜支社の場所までの地図だった。
「私が探していたドイツ人の医者だと、会社の人間に名乗って下さい。すぐに患者の元へ連れて行ってくれるはずです。」
琴子が助かれば、直樹は自分がどうなってもいいと思っていた。バッベル博士が琴子をきっと助けてくれるだろう。琴子と結ばれなくてもいい。琴子が生きてさえくれれば自分はどうなってもよかった。

「だめだ!」
博士は言った。
「君が彼女の元へ行かなくてどうする!彼女も君に傍にいてほしいはずだ!君は医者だろう?医者としての責務を全うしたまえ!」
「しかし、このままでは…。」
博士共々相手に捕まってしまうことは目に見えている。
「そうです。ヘル入江、あなたが助けないと!」
バッベル夫人も夫に追従する。
「ですが…。」
「君は必死の思いでここまで来た、私に会いに来た。それならば…もう少し頑張れるはずじゃないか?」
そして博士は直樹に訊ねた。
「…君は何としても彼女を助けたいかい?」
「勿論です。」
「結構。」
博士は頷いた。
「…私に考えがある。」



大泉の手の者たちは懸命に直樹の姿を探していた。
その横を堂々とバッベル博士夫妻が歩いて行く。ここは横浜、そして港である。外国人の姿は多いのでバッベル博士夫妻に彼らは目も止めなかった。そして夫妻の後をついて歩く女性にも――。

「…まだ油断はしないように、ヘル入江。」
バッベル夫人がドイツ語でささやいた相手は後をついて歩いている女性だった。
一見夫妻の伴の女性に見えるその人物は、直樹の変装した姿だったのである。



「…君、今から女性になりたまえ。」
「はい?」
一瞬、直樹は博士が何を言っているのか分からなかった。しかし博士は真剣だった。
「幸い、君は日本人にしては背が高い。そして細身だ。妻の服を着て帽子をかぶれば外国人の女性に見える。」
夫人は大きな帽子をかぶっていた。それならば直樹の短い髪も隠してくれるだろう。
他に手段はなかった。直樹は博士の案に従ったのである。



「やはり少し丈が短かったわね。」
汽車に乗り込み一息ついた時、夫人がクスッと笑った。夫人は日本女性よりかなり背が高いがそれでも直樹よりは少々低かった。
「肩のあたりがきついですね。」
夫人の手持ちの服を着ている直樹も笑う。汽車は乗客が少なかったうえ、外国人には日本人は近寄ろうとしない。おかげで三人はゆっくりと休むことができた。



そして数時間後、三人は相原家へ到着したのだった――。






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