日々草子 マドモアゼル・カメリア 16

2012.04.29 (Sun)

マドモアゼル・カメリア 16

この物語もクライマックスが近づいてきました。
いつもクライマックスが近づくと『ああ、次は何を書けるだろうか』とさびしい気持ちを感じてしまう私です…。
皆さんが面白い、楽しいと感想を寄せてくださるようなお話がこれからも書きたいなあ…。







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渡辺が帰った後、直樹はすぐに家を出た。向かった先は相原家ではない。
「君は…!」
「ご無沙汰しております、大原先生。」
琴子を診察しているのは近所に住む大原医師だろうと思った直樹だった。
「遅くに申し訳ありません。」
「いや、入りたまえ。」
もう夜になっている。診療を終えた大原医師は直樹を住居へと入れてくれた。

「君が来た目的は琴子ちゃんだろう?」
そう話す大原医師の顔色は冴えないものだった。お茶を運んできた大原夫人も元気がない。それだけで琴子の病状の深刻さを直樹は悟った。

「…最大の原因は長年の過労が積み重なってきたものだ。夜は芸者稼業、昼間は伯爵の店を手伝い…いつ寝ているのだろうと思うくらいだ。倒れない方が不思議だった。」
そしてそこに看護婦の勉強が加わったわけである。あの時自分が止めておけばよかったと直樹は後悔した。
「それだけならば若いからすぐに治るはずだったが…。」
「他に何か?」
「…大きなショックを受けたようで。それが病気を引き起こした原因のようだ。」
「ショック?」
「それが何のショックかは分からない。琴子ちゃんは話す気力もないから。そして治ろうという気力もない。どんどん衰弱していって今はもう…。」
そこまで話すと大原医師は顔を両手で覆った。

「琴子に会っても…いいでしょうか。」
大原医師は頷いた。
「ちょうど今から往診に行こうとしてたんだ。一緒に行こう。」
そして二人は連れ立って相原家と向かった。
「伯爵も店を閉めてずっと琴子ちゃんについている。」
「そうですか。」
相原家では琴子のばあやが迎えてくれた。その顔はやはり沈んでいた。
「先生…そして直樹くん。」
出てきた重雄が直樹を見て驚く。
「ご無沙汰しております。」
「いや、君には何とお礼を言っていいのか。」
借金問題を解決する道筋をつけてくれた直樹へ重雄は礼を述べた。
「お礼を言わねばいけないのに…。」
「とんでもないです。」
「今日は琴子に会いにきてくれたのかい?」
「はい。」
それを聞いて重雄が微笑んだ。
「そうか、きっと琴子も喜ぶだろう。」
そして重雄は大原医師と直樹を琴子の部屋へと案内してくれた。

琴子の部屋は家の中央、中庭を見渡せる場所にある和室だった。
壁には雑誌から切り取ったのだろう、可愛らしい絵が数枚飾られている。カーテンも花柄でいかにも女性の部屋といった感じだった。
その部屋に敷かれた布団に琴子は横たわっていた。

「琴子、先生が見えたぞ。」
重雄が声をかけると琴子がうっすらと目を開ける。
「どうだい、気分は?」
大原医師は琴子の傍に腰を下ろし脈を取った。大原医師の後ろに立っている直樹の姿が琴子の目に入った。
「入江先生…。」
「久しぶり。」
弱弱しいながらも琴子は直樹に笑いかけた。直樹も微笑む。
「うん、脈は大丈夫だな。」
しかし状態はよくなってはいない。それは直樹が見ても明らかだった。

「先生…どうしてここに?」
気を利かせて重雄と大原医師は直樹と琴子を二人きりにしてくれた。琴子が訊ねた。
「ここにいることを、沙穂子さんは?」
「彼女は関係ないから、気にしなくていい。」
直樹は琴子の傍に座る。白い顔が前よりも細くなっていた。
「…先生、外国へ行かれるんですよね?」
一体どこで聞いたのかと直樹は驚いた。琴子は「ふふふ」と笑った。
「すごいなあ。先生は頭がいいからお医者様以外にもなれちゃうなんて。」
本当は医者を続けてほしいと思っている琴子であるが、直樹が決めたことなのだから応援したい。だからそうやっておどけてみせたのである。
「先生は背が高いから、外国の方にも負けないでしょうね。」
「…背だけで勝てたら苦労はしないさ。」
琴子が手を直樹はそっと握った。折れてしまうのではないかと思うくらい細かった。
「治るから、安心しろ。」
「先生…。」
「俺も大原先生と一緒に診るから。お前が治るまで傍にいる。」
傍にいると言われた琴子は嬉しくなった。
「先生と一緒にお仕事するつもりだったのに、患者になっちゃうなんて。」
「治ったら一緒に働こう」と直樹は言いそうになった。しかし大泉家が何をしてくるか分からない今、そのようなことを易々と口にはできなかった。

少し話しただけなのに疲れた琴子は、やがて眼を閉じて眠り始めた。
直樹は立ち上がり、窓際に置かれている琴子の机を見た。そこには直樹が贈った看護婦の勉強の本がきちんと重ねられていた。直樹は中をめくる。線が引かれ琴子の手による書き込みがたくさんされていた。



それから直樹は日赤病院に辞表ならぬ休職願を提出した。色々事情があるのだろうと院長はそれを受理してくれた。辞められるよりはましだと考えたに違いない。
直樹は大原医師の元へ日参し共に琴子の診察にあたった。そして合間を見つけては母校である帝大に通い様々な医学書を広げた。

「この本を見ていただけますか?」
大原医師の元へ通うようになって数週間が過ぎた頃、一冊の本を直樹は大原医師の前に出した。それはドイツから輸入された医学書であり帝大の教授から借りたものだった。
「ここなんですが。」
大原医師は眼鏡をかけ、直樹が示した個所を見る。
「この薬で琴子がよくなると思うのですが。」
そこには、とある薬が琴子と似た病状の患者に非常に効果的であるという論文が掲載されていたのである。
「私もドイツの本はいろいろ検討したが、この本はまだ気づかなかった。」
大原医師はニッコリと笑った。
「入江くん、お手柄だ。これなら琴子ちゃんもよくなる。」
大原医師の返事を聞き、直樹も笑顔になった。
ただ問題は、その薬は帝大病院にすらないという希少なものだった。



「ちょっといいでしょうか。」
緊張した顔の息子に、重樹と紀子は顔を見合わせた。
「何だ、改まって。」
居間でくつろいでいた重樹はガウン姿、その隣で紀子は刺繍をしていた。
その両親に直樹は頭を下げた。
「お願いがあります。父上にしかできないことなんです。」
「どうしたの、一体?」
紀子が刺繍の道具をテーブルに置いた。
「…何なんだ、話してみなさい。」
こんな直樹は見たことがない重樹だったが、冷静に話すよう命じる。
「父上の…入江家の力を借りたいのです。」
「力?」
「俺は散々、華族に生まれた自分が嫌だと主張して生きてきました。それが父上や母上を傷つけていたことも知っています。そんな俺が頼めることではないことは知っています。どんなに叱られても軽蔑されてもいいです。何でもします。」
「一体どんなことに力を貸せと言うんだ?」
「そうですよ、具体的にお話してくれないと。」
困っている両親を直樹は見た。
「ドイツのある薬が必要なんです。輸入品ということでかなり高価なものなのです。それを手に入れたいのです。」
「薬を?それはお前の患者に使うのか?」
「ええ。」
「だったら日赤病院を通して手に入れられるだろう。」
「…病院の患者ではありません。」
「じゃあ、どこの…。」
そこまで言った時、重樹と紀子は顔を見合わせた。
「まさか、直樹さん…。」
紀子の言葉に直樹は頷く。
「琴子が病気なのです。それもかなり重く予断を許さない状況なのです。そのために必要な薬なんです。」
そして直樹はまた頭を下げた。
「お願いします。今まで勝手なことをして二人に迷惑をかけてきた俺が頼める筋合いではないことはよく理解しています。ですが、今はもう父上の力を借りるしか成す術がないのです。」
「お前って奴は…。」
「お怒りになるのはもっともです。父上が命じることは何でも引き受けます。医者を辞めます。」
「馬鹿者!」
普段温和な重樹の怒鳴り声に、直樹だけでなく紀子も青ざめた。
「あなた…落ち着いて。」
「馬鹿か、お前は!」
重樹は直樹を睨んだ。
「なぜ、もっと早くわしを、父親を頼らなかった!」
「父上…。」
怒られた理由が想像していたことと違い、直樹は驚いていた。
「お前はいつだってそうだ。何でも自分で決めて、わしたちに迷惑をかけないようにと自分が全て苦労をかぶって。そんなにわしらはお前にとって頼りない存在なのか?」
重樹の声色が変わり穏やかなものとなった。表情も変わっている。
「しかし…俺は入江の家を…。」
「医者のどこが悪いんだ?病気の人間を助ける、何て素晴らしい仕事なんだ。世間が何と言おうと、わしはその仕事を選んだお前を誇りにずっと思っておった。それを勝手に辞めて外交官とか訳のわからないことを言い出して。」
「そうよ、直樹さん。」
紀子が重樹の後に続く。
「私たちはいつもあなたを応援してたのよ。ただ体を壊すことだけは心配していたけれど。」
「母上も…。」
「しかも琴子ちゃんがそんな状態になっているなんて、どうして早く教えてくれなったの!」
「すみません。」
「全く本当だ。一刻を争う事態だというのに。」
重樹は立ち上がった。
「わしの事業の中に貿易関係があることを見込んでのことなんだろう?」
「…はい。」
重樹が手掛ける幾多の事業の中には貿易関係も含まれていた。だから直樹は重樹に頼ったのである。
「ドイツ関係もあったはずだ。すぐに連絡を取ろう。紀子、着替えて出かけてくる。」
「はい。」
「ありがとうございます、父上、母上。」
また頭を下げる直樹に、両親は優しく微笑んで居間を出て行った。



重樹はすぐに手配してくれた結果、横浜の取引先の会社にその薬があることが判明した。
「会社の信頼できる者に取りに行かせる。」
重樹はそう行ってくれた。あとはもう信じて待てばいい。直樹は大原医師に報告し、そして重雄にも話した。
「これで…これで琴子がよくなるんだね?」
「ええ。」
重雄は直樹の手を握り「ありがとう」と何度も繰り返した。


しかし――予想もしなかったことが、直樹を待ち受けていた。

薬が到着する予定の日、直樹は重樹の会社に呼び出された。
「やられた…まさか、ここまでしてくるとは…。」
重樹は力なく座り込んでいた。
「まさか…。」
直樹は青ざめる。
重樹に命じられ、長年勤務している信頼のおける秘書が薬を取りに出かけた。薬は無事に手に入ったのだが、何者かに車に細工がされておりあやうく事故を起こしそうになったのだという。秘書は無事だったが薬は全て瓶が壊れて中身は流れてしまったのだった。

「きっと大泉の手によるものだろう。」
病院を休職してまで琴子に尽くしている直樹は当然、沙穂子との結婚など頭から消えていた。その直樹に大泉家が業を煮やしたことによる今回の行動だろうと重樹は想像している。
「だが、証拠がないからな。」
証拠がなければ訴えることはできない。



「先生…また来て下さったんですね。」
全てを隠して訪れた直樹に、琴子が笑いかける。
「あの、沙穂子さんのことは?」
こんなに頻繁に来ていて大丈夫なのかと、琴子はいつも直樹と沙穂子の仲を気遣っていた。
「大丈夫。お前は気にせずしっかり養生してくれ。」
万が一のことを考え薬のことを琴子には話していなかった。
「そっか、沙穂子さんはきっと…お医者様としての先生を尊敬して下さっているのかもしれませんね。お優しくて賢い方ですものね。」
もしかしたら自分のことをきっかけに、沙穂子は直樹に医者を続けることを許してくれるかもしれないと琴子は淡い期待を抱いている。

そんな琴子を見て、直樹はまだあきらめることはできない。何か方法があるはずだと思っていた。




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