日々草子 マドモアゼル・カメリア 13

マドモアゼル・カメリア 13






突然、琴子が直樹の前に姿を見せなくなった。
入江家にも「忙しくて」という伝言だけで、まったく顔を見せなくなってしまった。
最初は額面通りに受け取っていた直樹であったが、それが二週間、三週間と続くとおかしく思えて仕方がない。

「らっしゃい!…あ。」
「こんばんは。」
まず直樹が向かった先は琴子の父、重雄の店だった。
「どうも。琴子がすっかり世話になっちまって。」
今日も店は混雑していた。その中で重雄は料理の手を休めて直樹に礼を言った。
「いえ。あの…お嬢さんはこちらにいらっしゃいますか?」
店内を見回してみても、琴子の姿はなかった。
「いや、今日はここにはいないんだ。」
重雄は申し訳なさそうに答えた。
「最近、忙しいみたいで。どうしているかと思って。」
「すまないね。最近は俺も忙しくてすれ違っているから、あいつと顔を合わせることも少なくて。」
「同じ家の中にいてですか?」
「ああ。」
そうなるとかなり忙しいのだなと、直樹は思った。

「…あれでいいのか。」
直樹が帰った後、重雄は休憩所に使っている二階へと上がった。そこには琴子が座っていた。
「…嘘をつかせてごめんなさい、お父様。」
琴子は窓からそっと外を見た。直樹の後ろ姿が遠ざかっていく。
「お前が決めたなら…な。」
重雄は笑顔を作り、愛娘の肩を叩いた。
大泉侯爵の頼みと引き換えに、琴子はあることを頼んでいた。
それは直樹が医者を続けることを許すことだった。大泉侯爵は快く約束してくれた。
直樹が沙穂子と結婚しても、医者を続けられる。あんなに愛している仕事を続けることができる。それだけが琴子の心の支えとなっていた。

「申し訳ございません。お嬢様はこちらには…。」
数日後、今度直樹が向かった先は相原家だった。しかしそこにも琴子はいなかった。幼い頃から琴子を育てているばあやが、これまた申し訳なさそうに腰を折った。
「どちらに?芸者勤めですか?」
「いえ…あの…女学校の時のお友達の所へ。」
「友達?」
「はい。お泊りに行かれました。」
「泊まりに…。」
何だかおかしいなと思う直樹ではあるが、ばあやに何を尋ねても無理だろうと思い引き下がるしかない。とりあえず、病気ではなかったことは安心である。



あの料亭から使いが来たのは、琴子が姿を見せなくなってから一か月が過ぎようとした時だった。
琴子の様子を尋ね歩いた後、直樹が仕事が忙しくなってしまっていた。料亭のおかみがわざわざこうして使いを出してきたということは、何かあるのだろう。
直樹は何とか仕事に目途をつけ、料亭へと向かった。

「お呼び立して申し訳ございません、入江様。」
まず現れたのは料亭のおかみだった。
「こちらが入江様にぜひにということでして…。」
そう話したおかみが美しい所作でふすまを開けた。そこには置屋のおかみと芸者姿の琴子が座っていた。

「本当に申し訳ございません。」
まず最初に口を開いたのは置屋のおかみだった。
「どうしても入江様にお話することがございまして。」
「話?」
わざわざこのような席を設けてまで話すこととは一体何だろうか。直樹は怪訝な顔をする。
「入江様に可愛がっていただいた、ここにおります琴次でございますが。」
恩ある相原伯爵の令嬢である琴子を置屋のおかみはいつも「お嬢様」と呼んでいた。それが今「琴次」と呼んでいる。
「…この度芸者をやめることになりました。」
「やめる?」
直樹は琴子を見た。琴子は手をついたまま、顔を上げようとしない。
「それじゃあ…。」
父の店を手伝いながら看護婦の勉強をすることにしたということだろうか。
しかし、おかみの言葉は直樹が考えていたそれとは違っていた。

「…さるお方に水揚げ…落籍されることが決まりましたので。」
「え…?」
直樹はおかみの言葉の意味が分からなかった。今、何と言ったのだろうか?
「さるお金持ちのお客様よりぜひにと望まれまして。こちらの琴次もいいお話だと喜びまして。」
おかみの口調は淡々としたものだった。
「今までご贔屓にして下さった入江先生へお礼を申し上げたく、こちらの席をご用意させていただきました。本当にありがとうございました。」
おかみに合わせ、琴子も「ありがとうございました」と小さな声で言った。

「すまないが…琴次と二人にしてもらえないか。」
どうしても信じることができない。
「二人で話がしたい。」
おかみは琴子を見た。琴子は小さく頷く。それを見ておかみは座敷を出て行った。

「おい、どういうことだ?」
二人きりになると、直樹の口調は冷たいものへと変化した。
「どうと言っても、今申し上げたとおりです。」
今日の琴子は初めて会った時と同じ黒地に椿の着物だった。
「お前、芸は売っても色は売らないって啖呵を切ってただろうが。」
初めて会った時、琴子は確かにそう言っていた。
「それは…あの時は気に食わない相手だったからです。相手によりけりです。」
伏し目がちな琴子が直樹には気に入らない。どうして自分を見てくれないのだろうか。

「そんなに言うなら、よほどいい相手なんだろうな。」
「はい、それはもう。」
「俺よりもか」と言いたくなったところを直樹は堪えた。嘘だと思いたいが、料亭のおかみ、置屋のおかみを巻き込んでいるのだから事実に違いない。
「正妻としてか?」
琴子は首を横に振った。
「それじゃ妾か!」
「妾で十分です!」
琴子は言い返す。
「お父上が泣かれるぞ!」
「父は私の決めたことを受け入れてくれました。」
そういえば、直樹がパーティーに連れて行くときも水揚げされるものだと勘違いしていた。その時の重雄を直樹は思い出す。

「あちら様は大して美しくもない、芸もない私でもと仰って下さいました。」
「へえ、芸がないことは自覚していたんだ。」
直樹の口から嫌味が出たが、琴子は意に介さない。
「このような私のために大金を積んで下さったのです。そのお気持ちにお答えしたいと思うのが人情でございませんか?」
「所詮金か。」
「そうです。今まで私も父もお金で苦労してまいりました。お金さえあれば幸せになれるのです。お金持ちの入江先生が一番よくご存知じゃありませんか?」
これがあの琴子だろうか。あんなに一生懸命看護婦になりたいと目を輝かせていた琴子だろうか。

「お前、看護婦はどうするんだ?」
直樹は琴子に訊ねた。
「それはもういいのです。」
「いい…?」
直樹の目が吊り上る。
「はい。だってもう仕事などしなくてもいいのです。綺麗な着物を着て贅沢に暮らすことが約束されたのですから。」
そして琴子は言った。

「何が楽しくて、病人の世話をしなければならないのでしょうか。」

直樹は自分の中で怒りが爆発したことを感じた。そしてその爆発と同時に手が酒の入った徳利を掴んでいた。

バシャーッ!!!

気が付いたら、琴子の顔に酒を浴びせていた。

「…。」
酒は美しく結われた琴子の島田髷からポタポタとこぼれていた。突然のことに琴子は驚いた顔をしたが、すぐにまた元の顔に戻した。

「…お前を買い被っていたようだな。」
こんな女に貴重な時間を費やしていたのかと思うと、直樹の怒りはおさまらない。
自分の仕事を理解してくれていた。周囲から奇異な目で見られていた自分をやっと理解してくれる人間が現れたと思った。その自分と同じ世界で生きたいと言ってくれたのに――。
今、琴子は自分の前でその仕事を、世界を思いきり否定し蔑んだのである。

「お前は、最低な女だ。」
そう言い残し、直樹は立ち上がり座敷を後にしたのだった。



一人残された琴子は濡れた顔や髪を拭うこともせずに…畳に身を伏せて声を殺して泣いていた。



入江家の御曹司と大泉家の令嬢の縁談が発表されたのは、それからわずか一週間後のことだった。



「あれは…。」
帝劇で観劇をした後、少し散歩をしないかと沙穂子に誘われて日比谷公園を歩いていた直樹は向こうから歩いてくる二人連れに気が付いた。
「…入江先生。」
それは琴子だった。白地に色とりどりの花があふれる和服にショールを肩にかけた琴子が、男と歩いてくるところだった。
あれが琴子を水揚げした男かと、直樹は拳を握りしめた。
「琴子さん…。」
その直樹の横にいた沙穂子も、琴子に気が付いた。

二組は少し距離を置いて一旦、立ち止まった。
先に歩き始めたのは、琴子たちだった。直樹たちの横を通り過ぎる時、琴子が軽く頭を下げた。

「…お前に金を払うのを忘れていたよ。」
直樹の口から言葉が飛び出した。琴子の足が止まる。
「お前、金で買える女だったんだよな。なら、俺も相手をしてもらった分払わねえとな。」
「直樹さん、何て失礼なことを!」
自分の前ではいつも紳士な直樹の信じられない言葉に、沙穂子が真っ青になった。
「失礼すぎます、直樹さん!」
「…お前は金さえ払えば、どんな男の前でもホイホイと尻を振る女だもんな。」
琴子は唇をグッと噛みしめた。泣きそうになるのを必死で堪えている。

「君、さっきから黙って聞いていれば失礼なことを!!」
琴子の連れの男が直樹に掴みかかってきた。この男が琴子の相手なのだろうか。
「いいのです、西垣様!」
「しかし!」
「構わずまいりましょう。ね?お芝居に遅れてしまいます。」
琴子が弱弱しく微笑むと、西垣と呼ばれた男は直樹から手を引っ込めた。
琴子の笑顔は今は自分ではなく、この男に向けられているということを直樹は知った。





************

…これが彼が最初に話した「ひどいこと、許されぬこと」だった。
確かに酷いと思った。こんなことをこの美しい男性から言われたら、どんな鋭い棘よりも胸を突き刺すだろう。
「…ひどいでしょう?」
彼は自嘲気味に笑った。しかしこの話をしていた時の彼は苦悶の表情だった。それはもう、話を聞いていた私がつい目を逸らせてしまったほどだった。
「自分でも何とひどいことを口にしたものだと、後から何度悔やんだことか。しかし言葉というものは一度口に出してしまったら取り返しのつかないものなのです。」
「…そうですね、ですが。」
私は彼を慰めようとした。
「あなたは彼女を愛しておられたからでしょう?愛しているがゆえにそのようなことを言わずにいられなかった、違いますか?」
彼は少し時間を置き、頷いた。
「ええ、愛していたからです。しかしその時の愚かな私はそのような時になっても彼女を愛していることに気づかなかったのです。ただ、あの時の私は職業を馬鹿にされた、自分が誇りにしている仕事を否定された、その怒りからあのような酷い言葉を投げつけたのだと思い込んでおりました。」
彼はソファに身を深く沈めた。

「…今でもその時のこと、その時の彼女の顔を思い出すと胸が痛むのです。」



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『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
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二次創作については、いわゆる原作の隙間をぬった作品もありますが、主人公以外のキャラクターをメインとしたものや オリジナルキャラクターが出てくるものもございます。

そして、原作と違った時代(平安や明治やその他の時代を舞台にしております)、異なる設定(主人公を医者と看護師じゃない職業にしております)で書いてあるものが多いですが、原作を冒涜しているつもりは全くございません。

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