日々草子 マドモアゼル・カメリア 12

マドモアゼル・カメリア 12






「…で、あとこっちなんだけど。」
説明していた直樹は、琴子の目が教本を見ていないことに気が付いた。
直樹は琴子の目の前で手のひらをひらひらと振る。琴子が「あ」とこれを出した。
「今日はぼーっとしているな。」
「ごめんなさい。」
我に返った琴子は慌てて謝った。せっかく直樹が寸暇を惜しんで勉強を教えてくれているというのに。
直樹は琴子の額に手を当てた。
「…熱はないみたいだな。」
そして舌を出させたり、下瞼を見たりした。
「忙しいようなら、少し勉強は休むか?」
やはり三足の草鞋はきついのだろう。直樹は何より琴子の体を心配している。
「大丈夫です、勉強は休みません!」
琴子の強い口調に、直樹は驚いた。
「…ごめんなさい。本当に大丈夫です。先生もお休みを使って下さってますし。」
沙穂子とのことがあれから琴子から離れることはなかった。あれでもう、琴子が直樹と繋がることは看護婦の勉強しかなくなってしまったのである。
渡辺には直樹と結婚するなど大それたことは望んでいないと言ったが、心のどこかで「もしかしたら」というかすかな望みを抱いていたことは事実だった。それが立ち消えた今はこの勉強の時間が何より貴重な時間であった。それをなくすわけにはいかない。

「あの…私の出来が悪くて時間がかかってすみません。」
三歩進んで二歩下がるような勉強の進捗状況だった。
「それは覚悟したって言っただろ。」
「でも…こんな調子で看護婦になれるのでしょうか?」
そちらもだんだんと琴子は不安になっていた。
「なってくれないと困るね。俺が教えているんだから。」
直樹はノートを丸めて琴子の頭を軽く叩いた。
「お前がちゃんと看護婦になるまで、面倒は見てやるから安心しろ。」
「看護婦になるまで?」
「ああ。試験に合格してちゃんと看護婦の格好をするところまで面倒みてやるよ。」
それはいつになるのだろうか。その時まで本当に直樹は面倒をみてくれるのだろうか。
その間にもし沙穂子と結婚することになったら…。

「じゃあ、続きを始めていいんだな?」
直樹の声で琴子は現実に引き戻され、また勉強が始まった。



「直樹、ちょっと来なさい。」
琴子を送って戻った直樹に、重樹が声をかけた。
居間に入ると紀子もおり、「そこにかけなさい」と重樹に言われるがまま直樹は両親の前に座った。
「…大泉侯爵家から正式に縁談の話が持ち込まれた。」
めでたい話のはずが重樹と紀子の顔はどこか冴えないものだった。
「そうですか。」
自分の縁談だというのに、直樹は他人事のような顔をしている。
「わしたちはお前の気持ちを何より尊重したいと思っている。」
重樹の言葉に紀子も頷いた。
「ただ、断るとしたらそれなりの理由が必要だ。」
「あなた、琴子ちゃんのことはどう思っているの?」
遠回しな重樹の言い方にじれったさを感じた紀子がズバリ訊いてきた。
「どうって…。」
そう言われても考えたことはない。琴子に何かを感じるのかと言われてもピンと来ない直樹だった。
「わしたちは家柄とか全く気にはしないぞ。」
重樹が言った。
「芸者をしていようが伯爵家の生まれじゃなかろうが、そんなことは全く気にしない。」
どうやら重樹に紀子は琴子の素性を話しているらしい。
「勉強を見ているということは…。」
「ただ、あいつが看護婦になりたいという夢をかなえてやりたいだけです。」
直樹は答えた。
「それだけです。今はあいつを看護婦にすることしか考えていません。ですから俺が今結婚するわけにはいかないのです。」
毅然とした息子の言葉に、両親は顔を見合わせた。
「とりあえず…あちらには今は結婚する意思はないと伝えておこう。」
これで引き下がるとは思えないが、本人がそう言い張るのだから仕方がないと両親は思った。
「大体、父上たちも大泉家との縁組は気が進まないのでしょう?」
直樹は笑った。
「お前が医者になった時点であきらめると思っていたのだが…。」
「うちの息子が医者になろうが何になろうがこちらの勝手じゃありませんか。それを気に入らないのならばさっさとあきらめてくださればいいのに。」
言葉を濁す重樹とは反対に、はっきりと怒りをあらわにする紀子。
「まあ、沙穂子さんが直樹にご執心なのだから仕方がないだろう。」
「でも直樹さんはその気はありませんわよ。」
直樹の気持ちは琴子にあるものだと紀子は固く信じているのだった。

縁談は今は…という入江家の返事に大泉家が動くことは、重樹や直樹に予想がついたことだった。
だが、まさかそれが自分たちにではなく琴子に向けられると思っている人間は入江家にはいなかった――。



「…。」
座敷に呼ばれ芸者姿でやってきた琴子は、またもや驚いて声を失った。
「どうも、先日お会いしましたな。」
そこに座っていたのは大泉侯爵その人だった。しかも琴子が芸者をやっていることも知っている様子である。
「お呼びいただき、ありがとうございます。」
芸者として琴子は丁寧に挨拶をする。大泉侯爵の用件は予想がついていた。

「…先日は沙穂子がこちらにお邪魔したようで。」
侯爵には黙ってきたと沙穂子は言っていた。だがきっと調べたのだろう。
「あのおとなしい子がまさかここまで来るとは思わなかった。」
侯爵は一人笑うが、琴子の表情は硬いままだった。
とりあえずお酌をと思い徳利を取り上げると、「悪いね」と意外にも侯爵は盃を出した。

「その沙穂子が…最近塞ぎ込んでおるのだ。」
飲み干した後、侯爵は深い溜息をついた。
「入江家との縁談がうまくいっていなくてね。いや、あちらははっきりと断りを入れてきたわけではないのだが、まあ即答されなかったことが沙穂子には相当ショックだったのだろう。」
とうとう縁談が直樹の元に申し入れられたのかと、琴子は初めて知った。沙穂子と会ってからも直樹とは数回会ったが直樹は何も言わなかった。
「わしが思うに…直樹くんは君のことで頭がいっぱいなのだろう。」
「それは違います。」
直樹のために、琴子は否定した。その声に侯爵は少し驚いた顔をする。
「沙穂子様にもお話申し上げましたが、入江先生が私を気にしていらっしゃるのは勉強を教えて下さっているからです。入江先生にそれ以上のお考えはございません。」
直樹が自分を愛しているなどと考えられなかった。直樹はあくまで勉強を見ているだけなのだと、琴子は自分にも言い聞かせた。無駄な期待などしてはいけない。

「ならば、君も直樹くんには特別な感情を抱いていないのだね?」
侯爵の問いに琴子は、
「…はい。」
とまた嘘をついた。本当は「お慕い申し上げております」と堂々と口にできたらどんなにいいだろうか。しかしそれは許されないことなのである。

「そうか…。」
侯爵は前に置かれたお膳を横へずらした。そして崩していた足を正した。
「頼む、君の方から直樹くんと距離を置いてくれないだろうか。」
そして侯爵は頭を下げた。
「何をされますか。」
琴子は沙穂子の時と同じように、侯爵の頭を上げさせようとした。が、侯爵も沙穂子同様頭を上げようとしない。
「調べたら直樹くんは君を看護婦にしようと必死らしい。」
そこまで調べ上げたのかと、琴子は内心驚いた。直樹に近づく女性は徹底的に排除する恐ろしさも同時に感じる。
「それだけの関係だと理解したいが、今の沙穂子を見ていたらそれすらも…。」
「侯爵様…。」
「沙穂子は幼い頃から直樹くんしか見ていない。直樹くん以外に男を知らないのだ。その孫娘の一途な想いを叶えてやりたい、哀れな祖父心と笑ってくれても構わん。だから頼む、直樹くんから離れてほしい。」
「私と先生は本当に勉強だけで…。」
「それすら、今の沙穂子には耐えられないのだ。それに…これは入江家のためでもある。」
「入江家のため?」
侯爵は頭を上げた。
「…財産家でもある侯爵家の御曹司と芸者の醜聞が、社交界に知れ渡ったらどうなると思う?」
侯爵の言葉は琴子の胸を突き刺した。醜聞…自分と直樹はそう見られてしまうのか。
「将来ある御曹司が芸者にうつつを抜かしているなどと噂になったら、直樹くんはもちろん、弟の裕樹くん、それに入江家にとっても大問題になるのだ。」
そこまで迷惑がかかるのかと琴子は愕然となる。
「…噂になっているのですか?」
「…ぼちぼちと。だが今なら止めることができる。君さえ身を引いてくれたら。」
華族社会に大きく顔を利かせている大泉侯爵の言うことならば事実なのだろう。
琴子は自分に優しくしてくれた紀子、重樹、少し生意気だがそれでも何も言わずに受け入れてくれた裕樹の顔を思い出す。自分のせいでこの人たちを悲しませることになると今、言われているのである。

「入江先生の将来にも影響が…?」
震える声で琴子が尋ねると、侯爵は頷いた。
「ただでさえ、華族の気まぐれと揶揄されているからな…。」
病院での直樹の立場を琴子は今になって思い出した。いつもぐっとこらえている直樹のことは自分が一番理解していたはずなのに…。

「…分かりました。」
琴子は手を付いた。
「…お話、よく分かりました。仰せのままに。」
「おお…!」
侯爵は琴子の手を取った。
「無理な頼みを聞いてくれてありがとう。本当にありがとう。」
侯爵は何度も何度も礼を繰り返したが、その声は琴子にはどんどん遠ざかっていくのだった。


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『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
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二次創作については、いわゆる原作の隙間をぬった作品もありますが、主人公以外のキャラクターをメインとしたものや オリジナルキャラクターが出てくるものもございます。

そして、原作と違った時代(平安や明治やその他の時代を舞台にしております)、異なる設定(主人公を医者と看護師じゃない職業にしております)で書いてあるものが多いですが、原作を冒涜しているつもりは全くございません。

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