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2012.04.09 (Mon)

マドモアゼル・カメリア 11


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琴子は日赤病院の中庭のベンチに座り、教本を広げていた。
最近直樹は泊まり勤務が続いており、家にも帰れない日々が続いている。そのことを入江家から使いの者が相原家に知らせにきたのは一昨日のことだった。しばらく勉強を見ることができなかったことの説明をするようにと直樹が寄こしてくれたのである。そしてその使いは、教本を持って病院へ来るようにという直樹の言葉も琴子に伝えた。

「悪かったな。しばらく留守にしていて。」
中庭に直樹が現れたのは、琴子が来てから二十分ほど経った頃だった。
「いえ、それより先生こそ無理されてませんか?」
琴子が顔を見ると直樹は少し疲れた様子である。
「平気だよ。医者はこれくらい耐えられないと務まらないから。」
直樹にとっては、忙しい合間に琴子の顔を見られることが休息になる。だからこそ、今日もここまで呼んだのである。
「お前こそ、体は大丈夫か?」
一方、琴子も芸者、父の店の手伝い、看護婦の勉強と二足どころか三足も草鞋を履いている状況である。直樹はそちらの方が心配だった。
「私も大丈夫です!」
琴子の台詞に嘘はない。何せ大好きな直樹と一緒にいられるための勉強なのである。
「そうか。それじゃあこの間は…。」
「ここまで進みました。一応読んでみたのですが…。」
僅かな時間を二人は大切にしなければいけない。
中庭は患者や訪問者が沢山出歩き、ざわついているが勉強に集中している二人の耳には全く入らない。
そのような二人だから、遠く離れた場所からある人物が見ていることに気がつかなかった――。





琴子が艶やかな芸者姿で料亭に出向いたのは、それから一週間経った頃だった。しかも呼んだ客は琴子―琴次一人だけでということだった。とりあえず、信頼できる置屋のおかみが入れてくれた座敷なので変な客ではないと思うが。
「失礼いたします。」
障子を開け、琴子は中へ入った。
「お呼び頂き、ありがとうございます。琴次でございます。」
両手をついて挨拶をした後、顔を上げた琴子はそこに座っている客を見て目を大きく見開いた。

「…お呼び立てして申し訳ございません。」
客は大泉沙穂子だったのである。
「いえ…とんでもございません。」
琴子はそれだけ口にするのが精いっぱいだった。
今夜の沙穂子は洋装姿だった。胸につけているスズランの形のブローチが光っている。そして沙穂子は一人だった。

「渡辺様の御親戚ではなかったのですね。」
沙穂子がまず口にしたのは、そのことだった。初めて会った時、渡辺が機転を利かせて遠縁の関係と紹介してくれたのだった。
「申し訳ございません。調べさせていただきました。」
勝手に身辺を探る真似をしたことを、沙穂子が謝った。
「いえ、こちらこそ嘘をついて申し訳ございませんでした。」
琴子も謝った。

「今夜のことは祖父も誰も知りません。私、一人で決めて参りました。」
お膳の料理には何一つ手をつけず、沙穂子は緊張した面持ちのままだった。
「琴子さんのことを調べたことも、祖父は知りません。どうぞご安心くださいませ。」
祖父の力の強さを知っているのか、琴子を安心させることを沙穂子は言った。
「相原伯爵様のお嬢様でいらっしゃるんですね。」
「伯爵といいましても…。」
「没落しておりますから」と続けようとしたが、琴子は言えなかった。
「直樹様とはこちらでお知り合いになられたのですか?」
「…はい。」
琴子の返事を聞き、沙穂子は俯いた。琴子もどうしていいか分からない。

「先日、日赤病院に、直樹様に会いに参りました。」
琴子はハッとなった。それは一体いつだったのか…。
「そうしたら、直樹さまはあなたと御一緒でした。」
やはりあの時かと琴子は唇をかみしめた。
「私、遠くからしかお二人を拝見することができませんでした。とても仲良さそうにお話していらして…お二人とも、周囲の事など目に入っていないかのようでしたから。」
それは琴子が直樹と沙穂子が一緒にいるところを目撃した時と、同じ感想だった。
「それは…。」
琴子が事情を説明しようとした時だった。

沙穂子が立ちあがり琴子の方に歩いてきた。
そして座敷の端にいる琴子の前に座り、手をついた。

「お願いします。どうか直樹様を奪わないで下さい。」
突然の沙穂子の行動に琴子は驚いたがすぐに、
「何をされますか!」
と、沙穂子の顔を上げさせようとした。が、沙穂子は頑として顔を上げようとせずに、
「勝手なお願いだとは分かっております。でも、どうか、どうか直樹様を私から奪わないで下さい。」
と言い続ける。
「沙穂子様、どうぞお顔を上げて下さい。」
琴子は懸命に言う。少し経った後、沙穂子は漸く顔を上げた。

「幼い頃、直樹様と初めてお会いした時に外国の本の挿絵から出てきたかのような素敵な方がこの世にいらっしゃるのかと驚きました。その時から私は直樹様のお嫁様にいつかなりたいと願って生きてまいりました。」
そんな小さい頃からの付き合いだったのかと、琴子は沙穂子の話を聞きながら思った。
「入江家と同じ侯爵家ということから、その夢も遠いものではないかもしれないと思っておりました。幸い直樹様は勉学にしかご興味がないようだったので他の縁談が来ることもありませんでしたし。」
沙穂子のスカートを掴む手が震えていた。

「ただ祖父をはじめとする大泉家は直樹様がお医者様になられた時に、私との縁談を進めることに難色を示し始めました。」
「…ご家族はお医者様というお仕事に反対なのですか?」
沙穂子は頷いた。
「侯爵家の御長男らしく、家督を継いで…政治の道へ進まれるかお父様のように事業家をなされるかということが一番だと。それで縁談が進まないまま、今日に至りました。でも私の気持ちは少しも揺らいでおりません。」
沙穂子にとって、この話をする事はかなりの勇気を必要とする事だろう。深窓の令嬢が一人でこのような場所へやってくるだけでも信じられないことだった。

「お願いします、琴子さん。私は直樹様がいないと…どうしていいか。」
そして沙穂子はまた手をついた。



「…沙穂子様は誤解されておいでです。」
どれほど経っただろうか。琴子は静かな声を出した。沙穂子が顔を上げた。
「私と入江先生は、沙穂子様が…誤解されているような仲ではございません。」
琴子は沙穂子に笑いかけた。いや、笑顔を無理矢理作っていた。
「私、入江先生のお仕事に感動して看護婦になりたいと思っているのです。」
「看護婦に?」
「ええ。」
琴子は頷いた。
「ですがこのような仕事を持っておりますから、看護婦の学校へ通うことは無理なのです。そしたら先生はほら、沙穂子様がよくご存知のとおりお優しい方ですから、勉強を見てやると仰って下さって。」
「では、お二人でいらっしゃるのは…。」
「はい。看護婦の勉強を見ていただいているのです。沙穂子様が考えられているような色めいたことではございません。」
琴子は沙穂子を安心させるように笑い続ける。その胸の中は悲鳴を上げていたが。

「では…。」
沙穂子は琴子をまっすぐ見つめた。
「琴子さんは直樹様のことを何とも?」
「…はい。私と入江先生では家柄が釣り合いませんしね。」
「本当に?」
「…ええ。先生と教え子のようなものです。」
この琴子の言葉に沙穂子はやっと安心したようだった。美しい笑顔が沙穂子の顔に戻って来た。

「申し訳ございませんでした。お見苦しいところをお見せして。」
「いいえ、とんでもございません。」
お料理をと琴子が勧めると、沙穂子は首を振った。
「何だか安心したら胸がいっぱいで…それに恥ずかしい真似をしていづらいのです。」
このまま帰ると言い、沙穂子は車を呼んでくれるよう頼んだ。

「あの、琴子さん。」
玄関まで見送りに出た琴子に、沙穂子が言った。
「今夜のことはその…。」
「大丈夫です。入江先生にはお話しませんから。」
「ありがとうございます。」
そして沙穂子は車に乗り帰っていった。

「…嘘をついちゃった。」
直樹の事を何とも想っていないと、とうとう沙穂子に嘘をついてしまった。これでも直樹へは一生、自分の気持ちを打ち明けることができないのだ。
「…仕方ないわよね。」
妻となれずとも、仕事を一緒にできれば。
何度もそう考えようとすると、渡辺の声がなぜか琴子の脳裏に繰り返される。

―― 恋愛にも貴賎はないんだよ、琴子ちゃん。

だがそう考える人間はごく僅かであるのが、今の世の中なのである。
自分と沙穂子、どちらと結婚した方が直樹が幸せになるかと尋ねたら、きっと100人中100人が沙穂子だと答えるだろう。
いつからか、琴子の目からは大粒の涙がポツリポツリと零れて止まらなかった。



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