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2012.04.05 (Thu)

マドモアゼル・カメリア 9


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入江家で初めて琴子が勉強をする日がやってきた。

「…というわけだ。」
入江家の応接間で看護婦養成所の教本片手に、直樹が説明を続ける。琴子は一生懸命ノートに直樹の言葉を書き留めていた。
「違う、それじゃなくて。」
直樹は本を見ながら琴子のノートまで確認して、誤りを訂正してくれる。
「すごい、先生は同時に何でもできるんですね。」
琴子が感心すると、
「お前は聞いたそばから忘れていくんだな。」
と、直樹が返して来た。

女学校での成績は芳しくなかったと琴子は最初に言っていたが、それが謙遜ではなかったことを直樹は授業開始直後に理解した。
しかも今日から始めた勉強は何もかも、琴子にとっては初めての事柄ばかりである。相当時間を労すことを直樹は覚悟したのだった。

「すみません、出来が悪くて。」
少し休憩することになって、琴子がうなだれる。
「先生、あきれていますよね。」
「ちょっと今まで俺の傍にはいないタイプではあるがな。」
「そうですよね。帝大のご出身ですし。高校も?」
「一高。」
「秀華院じゃないんですか?」
華族の子息が通う学校ではなかったことに、琴子は驚いた。
「あそこはつまらなかったから。一高の方が切磋琢磨できるし。」
「凄い…。」
一高から帝大とエリート街道まっしぐらの直樹に、琴子は改めて感心する。そんな素晴らしい人に教えてもらえるのだから、頑張らないといけない。

「でもお前、根性だけはあるな。」
「ほめてくれているのですか?」
「ああ。分からないなりにくらいついてくるところは偉い。」
「…ありがとうございます。」
直樹に褒められて琴子は頬を染めた。



それから二人はまた勉強に戻った。
「それじゃあ、今日はこの辺で。」
直樹がそう言った時だった。

「んまあ!何てことでしょう!」
廊下から女性の声がした。それを聞くなり直樹は「しまった」と額を手で押さえた。
「どうして言わないの!」
どうやら使用人たちを叱りつけているらしい。そして声の主は琴子にも分かった。
「私がいない間に、何てこと!」
声の主は直樹の母、紀子である。
先日のパーティーで顔を合わせた時はとても優しい感じであったが、あれはパーティーだったからに違いない。
きっと自分の留守中に家に上がり込んでいることを知り、何て無作法なことをと怒っているのだろう。それは直樹の態度からもわかる。

「先生、すみません。」
「え?」
琴子は急いで教本類を風呂敷に包んだ。
「あの、お母様に何か言われたら私が無理矢理先生にお願いしたと仰って下さい。」
「何で?」
「私、裏口から出ますね。その方が見つからないし。」
「は?」
しかし、琴子が出るより先に応接間のドアが開き、紀子が姿を見せた。

「あら、もうお帰り?」
紀子が琴子の姿を見つけ訊ねる。
「は、はい。すみません、お留守の時にお邪魔して。」
こうなったら謝るしかないと琴子は思った。
紀子は直樹を見た。
「ちょっと!どうして私に言わないの!」
「それは…。」
やはり直樹を叱りつけるのだ。琴子はあわてて、
「違います、私が先生に無理にお願いして…。」
と紀子に弁明しようとした。

「もう!私がいない間にこそこそと!」
紀子が直樹を責め続ける。
「違います、悪いのは全て私…。」
「どうして琴子ちゃんが来ること、黙っていたの!」
「琴子ちゃん」と親しげに呼ぶ紀子に、琴子の口が止まった。どうも様子がおかしい。

「ああ、こんな可愛らしいお客様がいらっしゃるなら外出なんてしなかったのに!」
紀子は琴子を抱きしめた。
「あ、あの…。」
「…だからいない間に呼んだのに。」
直樹が溜息をつく。
「どういうこと?」
「母上がいると、勉強の邪魔をするでしょう。こいつのことを気に入っていたようですし。」
「そうよ。こんな可愛らしいお嬢様があなたのような何の面白みもない無愛想な男性とお付き合いして下さっているんですもの。歓迎しないと!そうだわ!お茶の時間にしましょう!」
何が何だか分からない琴子をまた座らせ、紀子はお茶の支度をするように命じた。
どうやら紀子は琴子をかなり気に入っているようである。


「まあ、素敵!」
可愛らしいイチゴの模様のティーカップを見て感嘆の声を上げた琴子に、
「ああ、やっぱりい娘はいいわあ!」
と紀子が身をよじらせた。
「うちは男性ばかりだから、可愛い食器を出しても“所詮食器”としか言わないし、お菓子は“甘いものは嫌い”と言うし。つまらないったらありゃしない。」
テーブルにはたっぷりとホイップクリームがぬられた紀子のお手製ケーキが置いてある。
「おいしい!」
「でしょう?嬉しいわ。沢山召し上がれ。」
「はい!」
きゃあきゃあと女同士ですっかり意気投合した紀子と琴子を、紅茶を手にして直樹、そして弟の裕樹が眺めていた。



帰りにたっぷりのお土産を紀子から渡されたため、直樹が荷物持ちとして琴子を送っていくことになった。
「本当にいいのでしょうか。こんなによくしていただいて。」
恐縮する琴子に直樹は、
「止めても聞かない人だから。」
と素っ気ない。
「それより。」
直樹は琴子を見た。
「お前、無理だけはするなよ。」
芸者、店の手伝い、そして看護婦の勉強。どれも琴子は手を抜くつもりはないのだという。
さすがにいつか体を壊すのではないかと、直樹は心配になっていた。
「平気です。目標が決まってとても楽しいんです。」
琴子は笑って答えた。
「それに体は丈夫ですから。」
「少しは脳みそにまわせればいいけれどな。」
「ひどい。」
ぷーっとまた膨れた琴子に直樹は笑い声を立てた。



二人の勉強会が5回の回数を重ねた頃、琴子は銀座にいた。新橋の置屋に用事があった帰りであった。
直樹と二人で過ごせる時間が増え幸せいっぱいで歩いていた琴子だったが、その足が止まった。



「お忙しい中、来て下さってありがとうございます。」
白地に大きな花が刺繍された振袖姿の沙穂子は、直樹に微笑んだ。
「おじい様が無理を申しあげたのでしょう?」
「いえ、そのようなことは。」
背広姿の直樹も微笑み返した。

大泉侯爵が突然、直樹の家にやってきたのは一昨日のことだった。生け花の展示会が銀座で行われることになり、沙穂子も作品を出しているから一度顔を出してやってほしいと直々に言われれば、行かざるを得なかった。
そして直樹が来るとは予想していなかった沙穂子は、大喜びで直樹を出迎えてくれたのだった。
沙穂子の腕前はなかなかのもので、直樹は上品な感想を述べた。成行きでお茶でもということになり、二人は並んで銀座の街を歩いていたのである。

「入江?」
歩いていた直樹たちに声をかけたのは、渡辺だった。
「沙穂子さんもご一緒でしたか。」
「ごきげんよう、渡辺様。」
直樹の親友に丁寧に挨拶をする沙穂子。
「私のお花の展示会にいらしてくださって。」
「そうですか。入江、お前に花なんて分かるのかよ?この仕事人間が。」
おそらく大泉家に気を遣った故の直樹の行動だろうと察し、渡辺はからかう。
「お前よりは分かるつもりだ。」
二人のやりとりを沙穂子がにこやかに見つめている。



直樹たちと別れた後、渡辺は通りの向こうに見覚えのある人間を見つけた。
「あれは…。」
渡辺はサッと道路を横断し、その人間の肩を叩いた。
「渡辺先生!」
驚く琴子だったが、その顔色は冴えなかった。渡辺はすぐに、琴子が直樹と沙穂子が連れ立っているところを見たのだろうと分かった。

「ああ、疲れた!」
渡辺は突然声を上げ、自分の左肩を叩いた。何事かと見ている琴子に、
「いやね、気が張る顧問先で打ち合わせを終えてきたところなんだ。やあ、疲れた、疲れた!」
と明るく渡辺は話した。
「それは大変でしたね。」
「でしょう?だから琴子ちゃん、ちょっと甘いものでも付き合ってくれないかなあ?」
「甘いもの?」
「そう。俺結構好きなんだけど、男一人じゃ店に入りづらくって。ね、お願い。」
手を合わせる渡辺に、琴子の頬がつい緩んだ。



二人は近くの甘味処に入り、あんみつを注文した。
「琴子ちゃん、看護婦になるんだって?」
直樹から話を聞いていた渡辺が訊ねた。
「はい。なれるかどうかわからないんですけれど。」
「大丈夫だよ、入江が特訓しているんだから。」
渡辺は笑顔で励ます。

「渡辺先生…。」
そんな渡辺の笑顔とは対照的に琴子の表情は固い。
「あの…私が話した入江先生に看護婦になる理由…。」
「ああ。手に職をつけたいってことでしょう?いいと思うよ。これからの時代、女性も職業を持つことが当然になると思うし。」
「…違うんです。」
「え?」
渡辺のスプーンを持つ手が止まった。

「それは確かに間違ってないんですが、理由、もう一つあるんです。」
琴子のあんみつは手がつけられないままだった。
「私…汚いんです。」
「汚い?」
「入江先生のお傍にいたくて…先生には決まった方がおいでなのは知っているのに。」
「いや、あれは…。」
「入江先生の奥様になりたいなんて、そんな大層なことは思っておりません。そんな身分違いなことを考えておりません。」
琴子は渡辺の顔を見つめる。
「でもお仕事の時ならば…お仕事の仲間としてなら先生のお傍にいることを許されるのではないかと思ったんです。看護婦のお仕事に憧れたことは本当ですが、先生のお傍にいたい。その気持ちもあるんです。」
「琴子ちゃん…。」
「勿論、患者さんのために働きたい気持ちに嘘はありません。でも先生への気持ちがあることも本当です。こんなことを考える私は汚い人間なのです。」
琴子はそれだけ言うと俯いてしまった。
渡辺の親しみやすい人柄につい、心の奥に秘めていた気持ちを吐露してしまった。
もしかしたら優しい渡辺も軽蔑するかもしれない。

「琴子ちゃん。」
しかし渡辺の声はちっとも変わらず、優しいものだった。
「入江にさ、“職業に貴賎はない”って言ったんだって?」
「…はい。」
琴子は顔を上げた。そこでは渡辺が優しく笑っている。
「俺から琴子ちゃんに、この言葉を贈るよ。」
渡辺は琴子にゆっくりと言った。

「恋愛にも貴賎はないんだよ、琴子ちゃん。」





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