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2012.04.04 (Wed)

マドモアゼル・カメリア 8


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「ごめんくださいませ。」
玄関先で礼儀正しく声をかけると、中から現れたのはこの家の夫人だった。
「あら、琴子ちゃん。どうしたの?どこか具合でも悪いの?」
「いえ、元気です。」
「そう?それならよかったわ。ああ、でも考えたら具合が悪かったら診療所へ回るものね。」
琴子に優しく接する夫人は大原医師の妻である。そしてここは大原医師の住居だった。
「先生はいらっしゃいますか?」
「ああ、ごめんなさいね。今出かけてしまっているの。」
「そうですか。」
昼休みだから在宅しているかと思っていた琴子は出鼻をくじかれてしまった。
「何かしら?」
「あの…本をお借りしたかったのですが、またまいります。」
いないのなら仕方がない。また出直そうと琴子は帰ろうとした。
「あら、そんなことなら上がって好きな本をお持ちなさいな。」
大原夫人は遠慮することはないと、琴子を上がらせた。
「でもお留守の間に勝手に…。」
「構わないわ。知らない人じゃないしうちの人も私も琴子ちゃんのことはよく知っているもの。」
頭に白いものが目立ち始めているが気品漂う美しさの大原夫人は、外見に似合わず性格はかなりさっぱりしている。開業当初、大学から有名な先生が来たということで様子を探っていた近所の人間たちも、この大原夫人の人柄を知るとすぐに打ち解けたくらいである。
「あとで私からお話しておくから。お好きな本をゆっくり選ぶといいわ。」
そしてこの夫人の長所は人のやることを深く探らないところである。なぜ琴子が本を借りたいのかと一言も訊ねず、お茶を用意してくると下がってしまった。

「ええと…どれがいいのかしら?」
相談しながら本を選ぼうと思っていた琴子は困り果てた。どれが今の自分に必要な本か分からない。
「でもせっかく奥様がああ仰って下さるんだから。」
琴子は本棚を上から順番にゆっくりと眺め始めた。



名刺入れを届けてもらったお礼を言いにいかねばと思いながらも、直樹は仕事に追われ、自宅に戻ることもままならぬ日々が続いてしまった。
ようやく体が空いた時には、あれから十日も過ぎてしまっていた。

「まだ早かったか…。」
腕時計に目をやるとまだ夕方4時を少し回ったところだった。重雄の店に来てみたものの、暖簾すら出ていない。
それでも琴子がいないかと、直樹はそっと引き戸を開けた。

当然のことながら店内に客はいなかった。板場にも重雄の姿はなかった。
しかし、この間直樹が座っていた席に突っ伏している人間がいた。琴子である。
直樹は静かに店内に足を踏み入れ、琴子の傍へと近寄った。先日と同じ橙色の着物にたすき掛けをしている所を見るとこれから手伝う予定なのだろう。

琴子は直樹が傍に立っても目を覚ます気配がなかった。
「無理もないか。」
お座敷に芸者として出ていることとこの店の手伝い、両方こなしているのである。
ふと直樹は琴子の下に本が置かれていることに気が付いた。

「これは…。」
思わず声を出した時、琴子の目がゆっくりと開かれた。
「あ、すみません。お店はまだ…って、入江先生?」
夢でも見ているのかと琴子は目をこすったが、現実と知り立ち上がった。
「お前、こんな本読んでいるのか?」
忘れ物を届けてもらった礼を述べることも忘れ、直樹は本を手にして訊ねた。
「え?それは…。」
琴子は取り返そうとしたが、直樹は高く本を掲げてしまい手が届かない。

「お前、医者にでもなる気かよ?」
直樹は本の題名を見る。それは『小児外科学概論』、直樹が先日大原医師と話題にした本である。
「その…。」
「ったく、俺だって読破するのに通常よりも時間がかかったんだぞ。」
呆れながらも直樹は琴子に本を渡した。琴子はそれをしっかりと胸に抱えた。
「大原先生に借りたのか?」
琴子は頷いた。
「何で先生に本を借りたんだ?」
もしやどこか具合でもと直樹は心配になる。だったら自分に一言相談してくれてもいいものを。
「その…になりたいかなって。」
「あ?」
本を抱えてごにょごにょと呟く琴子に、直樹は眉を寄せた。
「よく聞こえなかった。何だって?」
琴子は胸の前で本を力を入れて抱きしめると、意を決して口を開いた。

「看護婦さんになりたいと思って。」

直樹は琴子を見つめた。目の前で琴子は恥ずかしさに震えていた。

「…お前が?」
琴子はコクンと頷いた。
「…本当に?」
また琴子はコクンと頷く。
「…何で?」
直樹は訊ねた。
「先生の病院で働く看護婦さんたちが素敵で。私もあんなふうに働きたいなって。」
琴子が話した理由は嘘ではない。直樹に会いに行くたびに目にする看護婦たちのきびきびと働く姿にいつしか憧れを持つようになっていた。

「…あと、手に職をつけた方がいいかなって。」
確かに琴子の考えは正しいと直樹は思った。今は芸者としてお座敷を回っているがそれも本職ではない。芸者修行をきちんとしていない琴子がこの先何年も芸者を続けられるとは思えない。それならば今のうちに手に職をつけることも考えるべきではある。

――伯爵令嬢が…そんなことを考えるなんて。
本当ならば沙穂子のようにお花だお茶だのお稽古にいそしみ、働く必要なんて考えることもせず、親が決めた縁談を受けてお嫁に行けばいい身分なのにと直樹は思う。

「私には無理でしょうか。」
琴子は直樹から言葉が返ってこないことに不安を感じ、顔を上げた。
「いや…そんなことはないと思う。」
「本当ですか?」
直樹に言われ琴子は少し安心した表情になった。
「だが、この本は医者用だ。お前には難しすぎる。」
琴子の抱えている本を指でトントンと直樹は突いた。
「先生のお宅で、これが入江先生の好きな本だと見つけてついお借りしてしまったんです。確かに全然分からなかったな。」
恥ずかしそうに琴子は笑った。



「お土産。」
この日、直樹は例の料亭で芸者の琴子を呼び出していた。そして現れた琴子の前に風呂敷包みを置いた。
「お土産?」
そんなことをされるのは初めての琴子の目が輝く。
「お菓子ですか?」
「さあ、開けてみれば?」
いそいそと琴子は紫の風呂敷包みを解いた。
「これは…。」
中から出てきたのは本だった。それも何冊もある。
「看護婦養成所で使われている教本だ。」
「看護婦養成所?」
「ああ。看護婦を養成…育てる学校がある。そこで学んだ看護婦もうちの病院には何人もいてね。その一人に頼んで教本を取り寄せてもらったんだ。」
看護婦たちの中から直樹が選んだのは、優秀な成績で卒業し更に余計なことを訊かないうえ、口も固いという一人だった。
直樹の突然の頼みに驚いた顔を見せたものの、何か事情があるのだろうと思い余計なことは訊ねなかった。そして直樹が見込んだ通り優秀卒業生の強みで教本を手に入れてくれたのである。

「それで勉強すればいい。」
「いただいていいのですか?」
お菓子ではなかったが、今の琴子には何よりも嬉しい贈り物だった。
「ああ。」
看護婦養成所へ行くことが一番看護婦になる近道ではあるが、今の琴子にそのような余裕はない。
「難しそうですね…。」
本をぱらぱらとめくりながら、その内容の難しさに困った顔を見せる琴子に直樹が言った。
「俺が教えてやる。」
「へ?」
今度は琴子が聞き返す。
「今先生、何て?」
「俺が教えてやるよ。」
元から直樹はそのつもりだった。琴子が独学することは無理である。だったら自分が教えてやればいい。そのために琴子に渡す前に直樹は時間を見つけて、教本の内容を頭に叩き込んでいた。

「いいのですか?」
直樹に教えてもらえるとは思っていなかった琴子は、まだ信じられずにいた。
「ああ。休みの日に俺の家に来い。」
「先生のお宅に!?」
あの豪邸へ自分が行ってもいいのかと、琴子は驚く。
「お前の家はまずいだろうし。」
重雄は店に出ている。いくらばあやがいるとはいえ、未婚の女性の家に男が上がり込むのは世間体が悪い。琴子に悪い噂が立っては気の毒だった。そうなると自分の家しかない。
入江家は大きいがその分使用人が多いので人の目はたっぷりとある。その方が琴子も安心だろうと直樹は考えていた。



************

「…あの時、私は彼女が看護婦になることを決めたことが純粋にうれしかったんです。」
彼は微笑んだ。
「医療という仕事を認めてくれたことがうれしかった。だから彼女の夢を実現させたかった。そのためにはどんなこともしたかったんです。」
彼は私の前で続ける。その時の彼の喜びがどれほど大きかったか、私にもわかった。
「侯爵家の令嬢に理解したいと言われても、私はちっとも嬉しくなかった。しかし…。」
彼はまたマドモアゼル・カメリアの写真に目をやる。
「理解したいではなく、彼女は私と同じ世界で働きたいと言ってくれた。それに勝る言葉はありませんでした。ただ欲を言えば…。」
彼はまた、その美しい口元を動かしてクスッと笑った。
「…私の傍にいたいからということも理由に挙げてくれたら、もっと嬉しかった。そんな贅沢なことを考えていたんです、私は。」



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