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2012.04.03 (Tue)

マドモアゼル・カメリア 7


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入江家と相原家のちょうど中間地点に、その店はあった。

「へい、らっしゃい!」
威勢のいい声に迎えられ直樹が暖簾をくぐると、すでに中は満員状態であった。
「いらっしゃい…と、先生!」
たすき掛けをした橙色の着物に紺色の前掛け姿の琴子が、直樹を見て笑った。
「お前、店も手伝っているのか?」
「ええ、お座敷がない時は。」
そして琴子は調理場の前の席に直樹を案内すると、
「お父様、ほら、前にうちにいらした…。」
と包丁を握る父に紹介する。
「ああ!あの時はどうも、早合点してしまって。」
包丁を置いて琴子の父、重雄が頭に手をやった。
「いえ。こちらこそ今日はお嬢さんにご招待していただきましてありがとうございます。」
「狭い店ですが、ゆっくりして行って下さい。」
重雄はニコニコと愛想がよかった。

「伯爵、知り合いかい!」
二人のやりとりを見ていて常連客が声を出す。
「本当に伯爵って呼ばれているのか」と直樹は少々驚いた。
「おうよ!琴子が世話になったお方だ。」
「ほう、琴子ちゃんが!」
ここにいる客たちは皆常連客で、しかも一体となっている。
「侯爵様の御曹司だぞ!」
「ちょ、ちょっと、それは!」
重雄の突然の発言に直樹は困った。ここでそんなことを口にされるとは。

「侯爵様!?」
ざわつきが止んだ。
まずいと直樹は思った。さすがに引かれたのだろう。ここは帰った方がいいのではと腰を浮かせかけた時だった。

「すげえな!おい!」
「伯爵の店に侯爵様がおいでなすった!!」
またもや店内が賑やかになった。
「ようこそ、侯爵!」
「よろしく、侯爵!」
そして客は口々に直樹を歓迎し始めた。

「さ、侯爵様、一杯どうぞ。」
客の1人が直樹のコップに酒を注ぐ。
「おじさん、侯爵様は先生のお父様なのよ。」
琴子が料理を出しながら訂正する。
「あ、そっか。でもま、いいさ。なあ?」
「…ええ。」
直樹は不思議だった。職場ではあれほど華族の息子であることを口にされるのが嫌で堪らないのに、この場所ではちっとも嫌じゃない。むしろ心地いいくらいである。
それは客たちに嫌味なところがないからだろう。裏表のない客ばかりが集う琴子の父の店を直樹は気に入った。


「席、空いてるかな?」
新しい客が来たようだった。
「先生、どうぞ!」
琴子が案内する。それは年の頃60代後半くらいの老人だった。
「先生って?」
案内を終えた琴子が戻ってくると直樹は訊ねる。
「近所の診療所のお医者様なんです。とっても腕が良くてみんなお世話になっているんですよ。」
「へえ。」
同業者かと直樹は老人を常連客と親しく話をしているところを見た。

「琴子、大原先生にこちらをお持ちして。」
「はい。」
「大原」という名前なのかと直樹は琴子が料理を運ぶ様子を目で追いかける。
「はい、先生。」
「おお、ありがとうな、琴子ちゃん。」
大原医師はうまそうに料理に箸をつけた。

「大原先生は昔、大学病院に勤めていたんですよ。」
大原医師が気になっている様子の直樹に重雄が説明する。
「へえ、そうなん…。」
言いかけた直樹の口が止まった。

大原…大学病院…。
考えた後、直樹はゆっくりと立ち上がった。

「失礼します。」
直樹は大原医師の前に立った。大原医師は直樹を見上げる。傍にいた琴子も何事かと緊張した面持ちで二人を見ていた。
「あの、もしや帝大病院の小児科の部長でいらした大原譲先生でいらっしゃいますでしょうか?」
「ん?そうだが…?」
やはりと直樹は思った。
「突然で失礼いたしました。私は入江と申します。帝大在学中の折に一度、大原教授の診察の様子を見学させていただきました。」
「ほう、君は帝大出身の医者かね?」
「はい。現在は日赤病院に勤務しております。そして先生の書かれた『小児外科学概論』も拝読いたしました。」
「ハハハ、あれか。」
大原医師は笑った。
「あの本は難解すぎて今ひとつ人気がなくてねえ。それを読んでくれる人がいるとは。」
「みな真剣さが足りないのです。本気で小児外科学を学ぼうと考えるのならあの本一冊読めないと。」
「うれしいねえ。」
大原医師は目を細めて直樹を見た。

「先生、お偉い方だったんですね。」
お盆を抱えて琴子が大原医師に話しかけた。
「いやいや、昔のことだよ、琴子ちゃん。」
聞くと大原医師は数年前に診療所を開設したのだという。

「君は入江くんだっけ?」
「はい。」
「ふうむ。」
大原医師は顎に手を置いて直樹の顔を眺めた。
「思い出した!」
そして声を上げた。
「確か首席で入ってきた学生にそんな名前がいたような。」
「確かに首席で入学はしましたが?」
「帝大首席合格」ということに客たちがざわめく。

「そうだそうだ。それが華族のお坊ちゃんで話題になって…いや、失礼。こういう言い方は大層失礼だったね。」
「いえ、事実ですから。」
「その君とまさかこの店で会えるとはね。」
大原医師は嬉しそうに頷いた。
「患者にとっては医者は医者にしかすぎん。どんな家に生まれたなんて関係がないんだ。」
「私もそう思います。」
「うん、君はなかなか骨がありそうだ。いい医者になりなさい。たまにはここでゆっくりと酒でも酌みかわそう。」
「…ありがとうございます。」
憧れの医師と出会えた喜びで直樹の胸はあふれていた。



翌日、本当に素晴らしい出会いだったと直樹は重雄の店での出来事を何度も思い出していた。

店もとてもいい雰囲気だったし、何より客層が素晴らしい。大原医師だけではなく他の常連客もみないい人たちばかりだった。
これも店主の重雄の人柄だろうと思う。

その余韻に浸りながら回診を終えた直樹の前に、意外な人物が現れた。

「お花のお稽古の帰りに寄りました。」
大泉沙穂子が日赤病院に姿を見せたのだった。

髪をゆったりと結いそこに珊瑚の大きな簪をさし、同じ珊瑚色の着物に身を包んだ美しい沙穂子に周囲は釘つけとなっていた。
「ここでは落ち着かないでしょうから、外に出ましょうか。」
歩きながら看護婦や患者が「何てお似合い」「入江先生の恋人?」と噂しているのが耳に入る。
「申し訳ございません。」
そしてその噂は沙穂子の耳にも当然入るわけである。
「お仕事のお邪魔になると分かってはいたのですが…一度直樹様の働いているお姿を拝見したくて。」
「構いませんよ。俺もちょうど休憩時間をとる所でしたから。」
直樹は沙穂子を安心させるように笑った。何せ相手は大泉侯爵家の大事な孫娘である。傷つけないように接しなければいけない。

「やれやれ…せっかく身分を忘れて楽しい時間を過ごしていたのに。」
元の世界へ連れ戻された気分で、直樹は沙穂子と並んで歩いていた。


琴子は看護婦たちがきびきびと働く姿をじっと見つめていた。
白衣を颯爽と着こなし、何と素敵なのだろうか。


「絶対入江先生の婚約者よ。」
「そうよねえ、あんなお嬢様じゃないと先生とは釣り合わないんでしょうねえ。」
その看護婦たちが手を止めることなく話している内容に、琴子は驚いた。
直樹の婚約者…しかも口ぶりから察するにこの病院に来ているようである。

「あ、ほら!」
「お似合いねえ。」
看護婦たちが示す方向を琴子も見た。そこには白衣姿の直樹と、美しい和装の女性が座っていた。
「あれは…大泉様の…。」
あの夜のパーティーで直樹と親しくしていた沙穂子だということに、琴子は気がつく。
何を話しているのか、二人とも楽しそうに笑い合っている。

琴子は赤い巾着の中からこげ茶色の皮でできた名刺入れを取り出した。昨夜、直樹が店に忘れて行ったもので、これを琴子は届けに来たのだった。
「…。」
琴子は名刺入れを小さな手でギュッと握った。



「直樹様はお医者様をずっと続けられるおつもりなのでしょうか。」
徐に沙穂子が問いかけてきた。
「ええ、そのつもりですが。」
「そうですか。」
これであきらめてくれないものかと直樹は思う。
大泉家が縁談を本気で持ちこまない理由には、医者をしている男に沙穂子を嫁に出したくないということがあることを知っている。
「私も少しずつですが…直樹様のお仕事を理解できたらと思います。」
「え?」
直樹が見ると、沙穂子は隣で頬を染めて俯いていた。



「あ、入江先生。これを先生にって。」
沙穂子を車に乗せた後戻った直樹に、事務の男が渡したものは名刺入れだった。朝出かける時にないことに気づき、おそらく重雄の店に置いてきたのだろうと帰りにでも寄るつもりだったのだが。
「いつもの女の子が渡しておいてくれって。」
となると琴子に違いなかった。それにしても来たのなら会って渡せばいいものをと思う。
「珍しいこともあるもんだ。」
黙って帰るなんて、余程忙しかったのだろうかと思う。
「便所にでも行きたかったのかもしれないな。」
まさか自分が沙穂子といる所を目撃したとは考えもせず、直樹はクスッと笑ったのだった。



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