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2011.12.15 (Thu)

一輪の花 16


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あれから琴子は、不安な日々を送っていた。

あの時、直樹が迎えに来てくれたことは嬉しかった。それは本当だ。
しかし、大泉家が持って来た縁談をあそこまで壊してしまったことで、直樹に何か影響を及ぼすのではないだろうか。
それを心配している琴子であった。



「…なぜここに?」
外出先から会社に戻って来た直樹は、「招かざる客」の顔を見ておもいきり嫌悪感を出した。
「何度呼んでも、君が家に来てくれないからじゃないか。」
こちらも機嫌悪く答えるのは、沙穂子の父の大泉子爵だった。
「だからここまで押し掛けて来たというわけですか。」
「…婚約者の父親に対する態度とは思えんが。」
「婚約は解消しました。もう会う理由はないでしょう。」
子爵の前を素通りし、直樹は机の前に座る。それは相手をするつもりはないという意思表示でもあった。

「沙穂子が元気をなくしてしまってね。」
そう言われても、直樹は顔を上げることもない。
「君の名前ばかり呼び続けているんだ。」
「何度も言いますが、婚約は解消しました。そう言われてもどうしようもできません。」
「こちらはそれを承諾した記憶はない。」
子爵がツカツカと直樹の前にやって来る。かなり腹を立てている。

「だったら話したらどうですか。」
直樹は目だけを動かし子爵を睨んだ。
「自分がした、非道なことを全て。」
「…君という男は。」
何を言っても直樹が無視するので、この場はあきらめて子爵は帰り仕度を始めた。
直樹はまた書類に目を戻した。

「うちの娘を捨てて、どこの馬の骨かも分からない奴を選ぶ気か?」
直樹は答えなかった。相変わらず人を見下してばかりの男だと思わずにいられない。
こんな人間に答えるつもりなどなかった。

「言っておく。」
ドアノブに手をかけたまま、子爵は直樹を見た。
「私も父も、婚約を解消するつもりはない。それだけは言っておく。」
「…大泉家の名誉のためですか。」
どこまで見栄を張れば気が済むのかと、直樹は呆れることを通り越し哀れすら感じ始めた。
完璧に育て上げた愛娘が家庭教師に負けることが、一番許せないのだろう。
愛に勝つも負けるもないというのに。
「それもあるが、沙穂子が君を愛しているんでね。」
「俺は愛していません。」
はっきりと直樹は答えた。
子爵はドアを乱暴にしめ、出て行った。



「沙穂子さん!」
突然現れた沙穂子に、琴子は驚いた。

「…ごきげんよう、琴子さん。」
どことなくやつれ、弱々しい笑顔を沙穂子は琴子に向けた。
最近顔を見せなくなったのは、父親に何か言われたからではないだろうかと琴子は思っていた。
しかし、この様子ではどこか体の調子でも悪くしていたのかもしれない。

「少しあなたとお話がしたくて。」
「そうですか。じゃあこちらに…。」
応接間に案内しようとした琴子の手を、沙穂子は握った。
「あなたのお部屋がいいのだけれど。」
「私の部屋ですか?」
琴子は不思議に思いながら、沙穂子を部屋へと案内する。

「散らかしていますけれど。」
そう言いながら、琴子は沙穂子を中へ入れた。
沙穂子は黙って中に入った。

部屋の中に、赤いイブニングドレスが吊り下げられていた。
時々、このドレスを箪笥から出しては琴子は眺めていたのである。

「これ…あの時のドレスね。」
沙穂子がドレスを見上げる。
「直樹さんに作ってもらったんでしょう?」
「…はい。」
隠してもばれることなので、琴子は素直に答えた。

すると沙穂子の口からクスッという笑いが漏れた。
「でしょうね。あなたがドレスなんて持っていないでしょうし。」
その言葉に、自分を見下す意図を琴子は感じた。

「今、お茶を頼んできます。」
誰か通らないかと、琴子はドアを開けて首を出した。
が、女中は誰もいなかった。

「すみません。ちょっとお台所へ行ってきますから…。」
そう言いかけた時、琴子の目が見開かれた。

ジョキ…ジョキ…ジョキ…。

琴子の机から持ち出したのだろう、沙穂子がハサミを手にしている。
そしてそのハサミで沙穂子はイブニングドレスを切り始めたのである。

「沙穂子さん!」
琴子は沙穂子を止めようと近づいた。
しかし、沙穂子は手を止めずにドレスを切り続ける。

「沙穂子さん、止めて下さい!」
琴子は必死で沙穂子の手を押さえようとする。

「離して!!」
沙穂子はハサミを琴子へ向けた。その美しい顔から笑顔はすっかり消え去っている。
「沙穂子さん、お願いします!やめて!これは私の大切な物なんです!」
その言葉を聞いて、沙穂子は琴子を睨んだ。
「…それは直樹さんが作ってくれたものだから?」
「え?」
「直樹さんが、あなたのために作ったものだから大事なんでしょう!!」
泣きながら叫ぶ沙穂子に、琴子は何も言えない。

沙穂子はまた、ドレスを切り始める。
「沙穂子さん!お願いします、止めて下さい!」
琴子は何とか沙穂子を止めようとする。が、その度に沙穂子がハサミを振り回すので危なくて近づくことができない。

無残に切り刻まれていくドレスを前に、琴子の目から涙が溢れ出す。

「…何よ。」
床に落ちた切り刻まれたドレスに目を落とし、沙穂子が絞り出すような声を出した。
「私の方が…ずっと直樹さんを好きなのに。」
「沙穂子さん…。」
「ずっとずっと、私の方が好きだったんだから!!」
沙穂子は琴子を睨んだ。
「それなのに、どうして後から来たあなたに取られなければいけないのよ!!」
琴子は何も言えない。自分は直樹を密かに想っているが、直樹が自分をどう想っているかなど知る由もなかった。

「沙穂子さんの…。」
誤解だと言おうとする琴子。
「どうして婚約を解消されなければいけないの?私が何をしたっていうの?」
この時初めて、琴子は直樹が婚約を解消したことを知った。
そしておそらくこの様子だと、沙穂子は父親が琴子にしたことを知らないに違いない。
だからといって、それを言うつもりは琴子にはない。

「あなたなんてここに来なければよかったのに…。」
沙穂子は涙で顔をぐしょぐしょにしながら、琴子の体を思いきり突き飛ばした。
琴子が床に転んだ拍子に、ドレスの切れ端がヒラヒラと宙に舞った。
それを見ながら、また沙穂子が叫んだ。
「あなたがここに来なければ、直樹さんと私は幸せになれたのに!」
それはその通りかもしれない。
自分がここにいなければ、直樹と沙穂子は琴子に振り回されることもなかったのだろう。
「…すみません。」
琴子は小声で謝ることしかできない。

「私から直樹さんを奪って何が面白いのよ!返してよ、私の直樹さんを!」
これがあのおしとやかだった沙穂子だろうか。
琴子の目からも涙が止まらない。
沙穂子がここまで変わってしまうのも無理はない。沙穂子がどれだけ直樹を一途に愛していたかを琴子だってよく知っている。
ウェディングドレスも完成して結婚式を指折り数えていればいいだけという時に、婚約を解消されたのだから怒るのも当然だろう。

――私よりずっと直樹さんを愛している…。
声を上げて泣く沙穂子を見ながら、琴子は思った。
琴子にはここまで自分を捨てて、直樹を愛することなどできないだろうと思う。
それができていたら、とっくに直樹へ自分の気持ちを打ち明けられている。
答えが分かっていても、溢れんばかりの想いを口に出さずにいられなかっただろう。
それができなかったということは、もしかしたら直樹への愛情は思っている以上に軽いものだったのだろうか。

気がつくといつも直樹のことを考えていた。
直樹が幸せになることだけを祈っていた。
だからこそ、直樹と沙穂子が結ばれることを邪魔する気は全く起きなかった。
しかし、沙穂子の愛に比べたら自分のそのような愛情など足元にも及ばないものだろう。

「勘違いしているのよ、直樹さんは…。」
しゃくり上げながら沙穂子は言う。
「あなたへの愛情なんかじゃないわ。直樹さんはあなたを愛しているわけではない。」
琴子は黙って沙穂子を見つめている。
「直樹さんはあなたが可哀想だから、同情しているだけなのよ!」

――同情。

その言葉は琴子の胸に突き刺さった。
助けに来てくれた時、そして抱きしめてくれた時、もしかしたら…と思った。
だが沙穂子に言われ、それは自意識過剰だと思い知らされた。
そうだろう。直樹が自分を愛しているわけではない。
一言もそのようなことを言われていない。
直樹は責任感の強い人間である。だから雇い主として使用人である自分を守っただけにすぎないのだ。



泣きながら沙穂子は帰って行った。
琴子は部屋に散らかるドレスの切れ端を呆然と見ている。
これを直樹が見たら、どんなに悲しむだろうか。
しかし、ドレスをこのような状態にした原因を作ったのは自分なのである。
責められるとしたら、それは自分だろう。



その晩、帰宅した直樹は裕樹から沙穂子が昼間にやって来たことを伝えられた。
二人で琴子の部屋で話をしていたこと、そしてそれ以降琴子が部屋から出て来ないことを裕樹から聞いた直樹は心配になった。

「琴子?」
直樹は琴子の部屋をノックしたが、返事はない。
直樹はもう一度ノックをする。

「…ごめんなさい。」
三度目のノックで、中から返事があった。
「ちょっと気分が悪くて…誰にも会いたくないの。」
沙穂子に酷い言葉を投げつけられたのだろう。どんなに傷ついているか。
直樹は琴子を抱きしめて慰めたかった。

「…一人にしてもらえる?」
直樹が口を開く前に、琴子からまた同じ言葉が返って来た。
本人がそう言う以上、無理矢理中に入るわけにはいかない。

黙って立ち去ろうとした直樹は、足元に落ちている赤いものに気がついた。
拾ったそれは、かつて自分が琴子に作ったドレスの生地だとすぐに分かった。
これがこのような形で、なぜここに落ちているのか。
その理由が直樹には容易に想像がついた。
沙穂子が琴子に何をしたかも同時に気付いたのだった。



数日後、直樹の元にまた大泉子爵、そしてその父の伯爵がやって来た。
伯爵まで来たとなると、無碍にもできない。
直樹は渋々、応接間で会うことにした。
驚くことに伯爵たちは、この場に琴子も呼ぶように言った。
「断ります。」
直樹は即断った。琴子に何をするかと思うと呼ぶことなどできない。

その時、ノックの音がした。
「失礼します。」
呼んでもいないのに琴子が応接間に入って来たのである。
「お前、何でここに!」
直樹は琴子を追い出そうとする。
しかし、琴子はその直樹を押しとどめた。

「先日のお話を台無しにしてしまったお詫びをと思いまして。」
「あんなもの、詫びるのはあちらの方だ!」
直樹は伯爵たちを睨みつける。
あと一歩のところで琴子は一生消えない傷をつけられるところだったのである。

「どうやら彼女の方が、常識を知っているらしいな。」
伯爵は頷くと、
「丁度よかった、君にも話があるのだ。座りたまえ。」
と、琴子に同席することを命じた。



「今日は君たちにもいい話を持って来た。」
並んで座った直樹と琴子に、子爵が話を始めた。
「君たちが離れないで済む話だ。どうだ?これでも私たちを追い出すかね、直樹くん?」
「離れない…?」
直樹は固い表情を変えなかった。一体どんな話を今度は持ってきたのか。

「直樹くん。」
子爵は直樹を見た。
「何です?」
「君には沙穂子と結婚してもらう。」
「いい加減にして下さい。婚約は解消…。」
「解消は認めん。」
伯爵が威厳のある口調で言い放つ。

「だが、こちらも折れる所は折れることにした。あくまで正妻は沙穂子だ。君に愛人として彼女を囲えばいい。」

「ふざけるなっ!!」
一体何を言うのかと、直樹は怒りのあまり立ち上がった。
隣で琴子は真っ青になっている。

「囲う?ふざけるな!人を何だと思っている!!」
今にも直樹は子爵に掴みかからんばかりに近寄る。
「沙穂子も納得しているのだ。」
「信じられない。」
呆れて物も言えない直樹。
このような人を人とも思わないことを、平気で受け入れる沙穂子も沙穂子だ。

「我々の世界では珍しいことではないことも、君だって知っているだろう。しかも結婚前からそれを許す妻など良妻の鑑とは思わないかね?」
「何が良妻だ。バカバカしくて聞くに堪えない!」
「君だって悪い話ではなかろう。わざわざ用意してやった良縁を蹴るような真似をした君を見捨てないんだ。感謝してほしいくらいだ。」
「良縁?開いた口が塞がらない。」
何も言えずにいる琴子に代わり、直樹が喋る。
「あれが良縁だというのなら、そちらに嫁がせればいいでしょう、ご立派なご令嬢を。」
これにはさすがに子爵の口が閉じられた。

本当はもっと言いたいことは山ほどある。
沙穂子が琴子のドレスをめちゃくちゃにしたことだって言ってやりたい。
しかし、証拠がない。
切れ端を拾っただけでは何の証拠にもならないだろう。
下手に相手にそれを言って、逆手にとられるようなことは避けたい直樹だった。

「…今ここで破談になったら、沙穂子がどれほど傷つくか分かるかね?」
伯爵が眼光鋭く直樹を見る。
「それが嫌でしたら、そちらから破談を申し入れたことにでもすればよいでしょう。俺は何も怖くないですから。」
「しかし、いずれ真実は広まるだろう。わしの可愛い孫が一家庭教師に負けたということが。」
「勝ち負けという問題では…。」
「お待ち下さい。」
言い返そうとする直樹の言葉を止めたのは、琴子だった。

「私は直樹さん…直樹様と結婚をするつもりはありません。」
琴子は静かに、だがきっぱりと言った。
「勿論、お妾さんにしていただこうとも思ってはおりません。」
「ほう?」
これに正直に嬉しそうな反応を見せる大泉伯爵と子爵。

「私は直樹様に特別な感情は何も抱いておりません。」

琴子の言葉を聞き、直樹は耳を疑った。

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