日々草子 一輪の花 7

一輪の花 7




「琴子さん!」
廊下を歩いていた琴子は、その声に心臓が痛くなった。
声の主は振り返らなくとも分かる。
だが止まって挨拶くらいはしなければ、失礼になってしまう。
琴子は振り返った。

「ごきげんよう、琴子さん。」
「いらっしゃいませ、沙穂子さん。」
最近、沙穂子は入江家に足を運ぶ回数が増えた。
直樹の仕事が忙しくて外で会う暇がないということも理由であるが、結婚式の準備など家で話した方が都合がいいらしい。

「直樹さんはまだお戻りじゃないです。」
当の直樹はまだ戻っていなかった。
「お仕事がお忙しいのでしょう?待つことはもうすっかり慣れましたわ。」
待たされていても腹を立てることがない沙穂子は、きっと良妻賢母となるに違いない。

「そうだわ、琴子さんにも相談に乗って頂きたくて。」
「私が?」
一体何の相談だというのか。
直樹への恋心を自覚してしまった今、出来れば沙穂子の顔はあまり見たくない。

しかし沙穂子に言われるがまま、琴子は応接間へと入った。

「見て。」
沙穂子はテーブルの上に本を広げた。
「どれがいいか、悩んでいるの。」
それはウェディングドレスのデザインを集めた本だった。
美しい花嫁たちが純白のドレスに身を包み、こちらへ向かって笑いかけている。

「どれも素敵で迷ってしまうわ。」
沙穂子の白く美しい指がページをめくる。その左手の薬指には今日もダイヤモンドが輝いていた。

「…それは婚約指輪ですよね?」
聞きたくもないことを琴子は口にしてしまった。
「え?これ?ウフフ、そうなんです。」
沙穂子は左手を自分の顔の高さまで上げる。
「こちらを頂いた時のことは昨日のことのように覚えています。直樹さんが目の前で箱を開けて、私の指にはめて下さったんです。」
「そうですか…。」
訊ねたことを琴子は後悔した。直樹が沙穂子をどれだけ大事にしているかをまた知らされてしまった。

「そうそう、こちらが生地の見本なんです。」
沙穂子は小さい冊子を今度は広げた。
「同じ白い色でも、生地によって雰囲気が違うんですよ。」
琴子に説明しながら、沙穂子は見本を琴子に渡した。

見本帳の生地はいずれも高価そうなものばかりである。

「あら、こちらは高梨子爵様の安子様がお召しになっていたデザインだわ。」
どうやら知人の衣装と同じものがあったらしい。
「とても素敵だったわ。あ、こちらは丸藤伯爵さまの和子様のドレス。」
沙穂子の口から出る知人は、皆上流階級の令嬢ばかりだった。
そして沙穂子もそのうちの一人である。

「私も皆様に負けないくらいのドレスを…あ、でもこのようなことで競うなんて変ね。」
「沙穂子さんが一番お美しいと思います。」
本心から琴子は言った。
お世辞ではなく、これらのドレスに身を包んだ沙穂子はどれほど美しいだろう。

「ありがとうございます。」
そして琴子に礼を言う沙穂子。本当に性格のよい女性だと琴子は思う。

「でもね、琴子さん。ここだけのお話。」
沙穂子は楽しそうに琴子に顔を近づけた。

「どなたの旦那様よりも、直樹さんが一番素敵であることは間違いなくてよ。」
顔を赤らめて囁く沙穂子。
「一番素敵な直樹さんの隣に並ぶんですもの。とびきりのドレスを着たいのです。」
「…そうですか。」
琴子は何とか答えた。
そう、直樹の隣に並ぶことができる唯一の女性なのだ、沙穂子は。



「沙穂子さん、すみません。」
丁度そこに直樹がやってきた。着替えもせずまっすぐに応接間にやって来たらしい。
「会議が長引いてしまいまして。」
帽子を取りながら、沙穂子を見た直樹はそこに琴子がいたことに少し驚いたようだった。
「大丈夫ですわ。琴子さんと楽しくお喋りしていましたもの。ね、琴子さん?」
「ええ。」
琴子は無理に笑顔を作った。

「さて、お邪魔虫は退散しますね。」
直樹が来たのだから、自分はもう必要ない。
「お二人でごゆっくり。」
直樹が沙穂子のドレスを選ぶ所を見るのは辛い。
琴子は軽く会釈をすると応接間を出て行った。



「あ、これ。」
翌日、応接間に入った琴子は沙穂子のデザイン帳に気がついた。
きっと二人で楽しい時間を過ごしていたので、忘れて行ってしまったのだろう。
琴子はソファに座り、ぱらぱらとめくってみる。

「きれい…。」
昨日もそう思ったが、こうやってじっくり見ていると本当に時間を忘れてしまうくらいである。
応接間に誰もいないことをいいことに「これ、素敵だな」「これもきれい」「これはちょっと私には無理かな」などと一人呟きながら、琴子はデザイン帳に夢中になっていた。
「やっぱりこれが一番素敵!」
「お前はこっちの方がいいんじゃないのか?」
見ていた本に自分のものではない指が伸ばされた。
驚いて振り返ると、ソファの後ろから直樹が覗いていた。

「忘れてしまったと今電話があって、探しに来たんだ。」
「あ…そうか。」
勝手に見て悪かったと琴子は謝り、直樹へ本を渡そうとした。

「いいよ。見てろ。」
直樹は本を琴子へ押し戻した。
「何だかすごい楽しそうだったし。」
「楽しいというか、見とれちゃって。」
そして琴子は先程直樹がいいと言ったドレスのページを開いた。
それは、胸のすぐ下の位置から裾までストンとなっている形のドレスだった。

「どうしてこれがいいの?」
直樹が自分に似合うと言ってくれたことで、琴子の胸は高鳴る。
「これだったら、お前がどれだけ食いまくっても腹がきつくならないだろうと。」
「な…。」
「いやそれ以前に、食い過ぎて出っ張っているその腹にも楽だろう。」
「ちょっと!!」
からかっているだけだと知った琴子は怒り出す。
どうして自分に対して、直樹はいつもこのような態度なのだろうか。

「…沙穂子さんのドレス、決まった?」
琴子は話題を変えた。
「ああ。」
「どれ?」
直樹はページをめくった。
「これだって。」
それはまるで外国の王女が着るかのような、ふんわりとしたデザインのドレスだった。
「これにパールだとか色々刺繍するって張り切ってた。」
「へえ…。」
きっと当日、眩しいくらいに沙穂子は輝くだろう。
それを見ることになるのだろうか。琴子の表情が翳った。




「絶対離すなよ!」
「分かってるって!」
庭から聞こえてくる賑やかな声に、直樹は窓を開けた。
見下ろすと、琴子と裕樹が自転車の練習をしている。

「お前、離しているだろ!」
「離していないってば!」
琴子に支えてもらいながら、裕樹がよろよろと自転車に乗っていた。
裕樹も以前と比べると外に出ることが増えた。おかげで食欲も増し、最近少し身長も伸びたらしい。
それも琴子のおかげだと直樹は思う。
二人を見ている直樹の頬が緩む。



「お前、乗ってみろ!」
「わ、いいの?」
なかなか一人で乗れるようにならない裕樹が、琴子に自転車を渡す。
ずっと乗りたくてたまらなかった琴子は、裾の長いスカートを気にすることなくまたがった。

「あいつ…あんな格好で。」
何というお転婆かと、直樹は呆れた。
「あんなんじゃ、ドレスなんて一生着られないだろうな。」

「それじゃ、行くわよ!」
「待てよ、僕がまだ…。」
「あ、支えはいらない。」
琴子は裕樹の支えを拒んだ。
「怪我しても知らないぞ?」
「大丈夫よ、私の運動神経をとくとご覧あれ!」
琴子はペダルを踏み込んだ。

自転車はスムーズに進み始めた。
「楽しい!最高!」
琴子はペダルをどんどん踏み込む。

「すごい…。」
本当に一人で乗りこなしている琴子を見て、裕樹は目を見張っている。

しかし、直後に琴子の悲鳴が庭に響き渡った。
「キャアーッ!!」
難なく自転車を乗りこなしていた琴子の体が、傾く。
スカートの裾がタイヤに巻き込まれ、バランスを崩したのである。

そして琴子は派手に転んでしまった。



「琴子!」
裕樹が走り始めた。が、その裕樹を追い越した影があった。

「琴子、大丈夫か?」
「痛たたた…大丈夫…。」
顔を上げた琴子は目を丸くする。そこにいたのは裕樹ではなく、直樹だったのである。
琴子が転んだのを見た途端、直樹は自然と庭に向かって走り出していた。

琴子は足を押さえている。

「手当てをしないと。」
直樹はそう言うと、琴子の体を軽々と抱きあげた。
「ちょ、ちょっと!!下ろして!」
このようなことを男性、しかも直樹からされるとは思ってもいなかった琴子は足をばたつかせる。が、そのせいで痛みがまた走った。
「大人しくしてろ。」
顔をしかめる琴子を直樹が叱る。

「自転車は裕樹、お前に任せた。」
「う、うん。」
突然の兄の行動に驚きながら、裕樹は自転車を起こす。

そして直樹は琴子を抱いて屋敷の中へと戻って行った。



「骨に異常はないだろう。」
琴子の足はふくらはぎが青く腫れあがっていたが、骨折やひびの心配はなさそうだった。
「じゃ、手当するぞ。」
直樹はそう言うと、琴子のスカートをめくり、手当をしやすいように自分の膝の上に足を乗せた。
「ちょっと!」
膝上までまくりあげられたスカートを押さえながら、琴子は赤くなる。
「一言断ってよ!勝手にめくらないで!」
「変な勘違いするな。俺は手当をするためにしただけだ。」
女中に運ばせた薬箱から、塗り薬を取り出しながら直樹は琴子を睨んだ。

「誰かに…というか、自分でできるから!」
琴子は直樹の手から塗り薬を奪おうとする。が、直樹がその手を高く上げてしまった。
「お前にやらせると、治るものも治らねえよ。」
「失礼な!」
「いいから黙ってろ。」
直樹は指にたっぷりと緑色の薬をつけ、それを琴子のふくらはぎへと伸ばす。
「痛い…。」
「少し我慢しろ。」
直樹に言われ、琴子は痛みを堪えた。

薬を塗り油紙を当てると、直樹は器用に包帯を巻き付けてやっと琴子の足を膝から下ろした。

「また明日、見せろ。」
「…はい。」
直樹の指が気持ちよくて、ついそのような返事をしてしまう琴子。

「ありがとう…。」
「どういたしまして。」
直樹は指を拭くと、薬箱の蓋を閉めた。



「このこと…沙穂子さんには黙っておくわね?」
「は?」
直樹が怪訝な顔をする。
どうしてここで沙穂子の名前が出るのだろうか。

「どういう意味だ?」
「だって、婚約者以外の人間の足を触ったなんて沙穂子さんにばれたら…よくないじゃない。」
琴子は沙穂子に気を遣った。
いくら怪我をしたからといって直樹がこのようなことをしたと知ったら、絶対不快な気分になるだろう。
直樹だって黙っていてほしいと思っているに違いない。

「…彼女を愚弄するなよ。」
穏やかだった直樹の顔が一変した。
「彼女はこんなことでつまらない嫉妬をするような女性じゃない。ふざけるな。」
本気で直樹は怒っている。
「ごめんなさい…でも…私は…。」
「馬鹿にするのも大概にしろ。」
わざとだろう、ドアを音を立てて閉め、直樹は部屋を出て行ってしまった。

「…怒るの当然よね。」
どうして余計なことを言ってしまったのだろう。直樹が怒るのも当然である。
「あんなに怒るくらい、沙穂子さんを愛しているのね…。」
せっかく優しくしてもらったというのに、それを裏切るような真似をしてしまったことを琴子は悔やんだ。
「つまらない嫉妬をしているのは私なのに。」
あんなに愛し合っている二人の間に、割って入る余地などない。
それが分かっているのに、このような優しいことをされるとますます想いは募ってしまう。
「最低…私…。」
琴子は顔を両手で覆って、泣いた。



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Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
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