日々草子 はじまりはダンス、そして… 11

はじまりはダンス、そして… 11







ベートーベンの『テンペスト』が流れている。裕樹はそれを聴きながら、もう何度目かになるか分からない溜息をもらした。

琴子が去って一週間が過ぎていた。
その間、両親から勉学に専念することを許可する手紙が届いたにもかかわらず、直樹は大学を休んでいた。
そして朝から晩までピアノを弾き続けている毎日。流れてくるのは以前同様、重い曲ばかりであった。



「何か急ぎの用?」
直樹のピアノの部屋の前で、女中が困った様子で立っていた。だが急ぎではないらしい。
「…悪いけど、暫く兄様の好きなようにさせてあげて。」
そして裕樹はドアを見た。
その中で、直樹はどんな思いで鍵盤に向かっているのだろうか…。



一曲弾き終え、直樹は後ろを振り返った。
そこには誰もいない。いつも見えたあの顔はもういないのである。それが分かっているはずなのに、弾き終える度にこうして後ろを確認してしまう。もう癖になっているらしい。

「…何でいないんだ。」
そう呟いても、答えてくれる人間もいない。
直樹はポケットを探った。中から出て来たのは、琴子にあの夜贈ったペンダントだった。
琴子が去った後、琴子の部屋に残されていたものだった。

―― 夫がいるのに、他の男からもらった物なんて持ち帰れるわけ…ないよな。

分かってはいるが、自分の想いが叶わないものだと知らされたようで辛い。
直樹は再びそれをポケットに押し込むと、また鍵盤を叩き始めた ――。



好美がやってきたのは、それから更に一週間が過ぎた頃だった。
「お菓子を焼いたから、裕樹くんや直樹さん、琴子さんに食べてほしくて。」
何も知らない好美は頬を染め、裕樹に話す。
裕樹はそんな好美を見るのが辛い。

「あら?直樹さん?」
流れてくるピアノの音に気がつき、好美が言った。
「それじゃ、琴子さんもそこにいるのね?」
無邪気な好美に、裕樹の胸はますます痛む。

「…裕樹くん?」
裕樹の様子がおかしいことに好美は気がついた。
「どうかしたの…?」
「…お前に謝らないといけないことがあるんだ。」
裕樹は琴子が出て行った時から、ずっと心に思っていたことを好美に告げる決心をした。

「僕…お前のパーティーに行けなくなった…。」
「え、それって、どうして?」
さすがに好美も青ざめる。
その時、

バァーンッ!!!

けたたましい鍵盤の音が二人の耳に響いた。まるで何かを打ちつけたような激しい音。

「直樹さん…何?どうしたの…?」
入江家には何度か遊びに来たことがあるし、直樹のピアノの音も何度も聴いたことがある。しかし、こんなに乱暴な音を好美が耳にするのは初めてだった。

そして、好美は気がつく。
この家の雰囲気が重く苦しいことに ――。

「どうしたの?何があったの?」
好美は裕樹に訊ねた。
「…琴子が、出て行ったんだ。」
裕樹は絞り出すような声を出した。
「出て行ったって?」
どういう意味だろうか?出て行った…帰ったとしても、すぐにまた会えるのではないかと、好美は思う。
「二度と会えない。」
好美の疑問に答えるかのように、裕樹が呟く。
「どうして?」
「琴子は、結婚していたんだ。」
「結婚?え?どういうことなの?」
好美は意味を理解できない。
「その前に僕はお前に謝らないといけないことがあるんだ。」
「謝るって、何を?」
裕樹は好美の問いかけには答えず、少しの間…悲しそうに好美を見つめた。

「実は僕は、ダンスが下手なんだ。殆ど踊れないと言ってもいいくらい。」
「裕樹くん…。」
突然の裕樹の告白に驚く好美。
「それでも…好美と踊りたくて、ダンスの先生を兄様につけてもらった。でも六人に教えてもらっても全然だめだった。」
「六人…。」
「笑っちゃうだろ?」
裕樹はフッと笑った。だが好美は笑わない。
「で、七人目に来たのが…琴子。」
「それじゃ、琴子さんは…!」
「そう。あいつは遠縁なんかじゃなくて、僕のダンスの先生だったんだ。」
そして裕樹は続ける。
「あいつは今までの先生とは全然違っていて。図々しいし、なれなれしいし。僕が我儘言っても嫌な顔一つしないで。それどころか僕が嫌なやり方でダンスを覚えてもだめだからって笑って。」
「…。」
好美には琴子と裕樹のダンスの稽古の風景が、手に取るように浮かんだ。きっとそれは明るく楽しいものだったに違いない。

「僕があいつを追い出そうと悪戯した時も、自分が悪いとか言って謝るような奴で。」
「…琴子さんらしいね。」
好美は笑った。
「本当にお人よしでさ。でも…あいつのおかげで僕はまともに踊れるようになって。」
話しながら、裕樹の声が詰まり始める。

「好美…。」
そして裕樹は好美の顔をまっすぐに見つめた。
「僕…初めて踊るダンス…お前と一緒に踊るダンス、どうしても琴子に…僕にダンスの楽しさを教えてくれた七人目の先生に見せたいんだ…だから…。」
裕樹は頭を下げた。
「ごめん!!本当に勝手だと思う!でも、どうしても、どうしても僕は琴子に見てほしい。」

「…顔を上げて。裕樹くん。」
暫くした後、好美の静かな声が裕樹の頭上に聞こえた。
裕樹はゆっくりと頭を上げた。
「好美…。」
そして裕樹は目を見張る。そこには目に涙を浮かべた好美がいた。
「ごめん、やっぱり傷ついたよな。」
結局、好美に恥をかかせることになるのだ。裕樹は自分を責めた。
「違う、違うの、裕樹くん…。」
好美は首を振る。そして笑顔を見せる。
「私、とっても嬉しいの。裕樹くんが私と踊るために、そんなに一生懸命になってくれたことが。」
「好美…。」
「そして、裕樹くんの気持ちも良く分かる。私も同じ気持ちよ?」
「同じ?」
好美は頷く。
「私も裕樹くんと初めて踊るダンスは、裕樹くんが大好きな琴子さん…琴子先生に見てほしいもの。」
「本当?」
「ええ。」
そして好美は裕樹の手を静かに取った。
「…裕樹くんが琴子さんを大好きなように、私も琴子さんのことが大好きなのよ?」
「好美…。」
手を取られた裕樹の頬に涙が流れる。本当に、何て好美は素敵な人間なのだろうか。



再び、重々しいピアノが邸内を流れ始めた。
裕樹から琴子が最低な人間と結婚していること、そしてその理由があまりにも悲しい理由であることを聞かされた好美は、その音色に胸を痛める。
「直樹さんも…辛いでしょうね。」
「ああ…。」
裕樹も好美も、直樹が琴子を想っていたことに気がついていた。そして琴子も同じように直樹を想っていたことも。

「裕樹くん…!」
直樹が弾くピアノの音色に耐えきれず、好美が声を上げて泣き始める。
「可哀想…可哀想よ。直樹さんも…琴子さんも…。」
「うん…そうだよ…可哀想だ…兄様も琴子も…。」
泣く好美の肩を、裕樹はそっと抱き寄せた。裕樹の胸で好美は泣き続ける。裕樹も声を殺して泣いた…。

重く切ないピアノの音色は、入江家を深い悲しみに落として行った ――。
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comment

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号泣です。

直樹の慟哭がピアノの音色となって家中を包んでいる。裕樹君、優しい。好美ちゃんとダンスする姿を琴子に見て欲しいから、好美ちゃんに正直に全て話して。そんな裕樹君の気持ちを理解した好美ちゃんもとてもいい娘ですね。そして2人共、直樹と琴子の気持ちに気付いていたんだ。裕樹君達が直樹と琴子の代わりに泣いてあげているみたいで、私まで涙が止まりません。

ウルウルです・・・・

水玉さん、おはようございます。
ずっとお話読ませていただいておりました。

本当に直樹、琴子の二人、辛い本当に悲しい展開へ。
ピアノを弾いていても、横で聴いてくれる人がいないこの直樹の
辛さ、プレゼントしたものも、置いていってしまった琴子。
愛情のかけらさえない、琴子の名前さえ知らない、男しか愛せない夫の元へ、帰ってしまった琴子。
直樹、どうするのかしら。
裕樹の家を訪ねて琴子の事を聞いた好美チャンも辛いよね。
琴子に絶対ダンスを二人で踊っているところを、見て欲しいよね。直樹の気持ち、裕樹の気持ち、好美ちゃんの気持ちも
痛いほど伝わってきますね。
直樹、琴子の二人の気持ちが判るだけに、もう・・・・・
涙が・・・・・
此処は、男直樹の出番では・・・
琴子にピアノ聴いて欲しいよね。

なくてはならない存在

    おはようございます。
琴子がもたらしたもの・・・素直な気持ちかな・・・プライド高い裕樹も総て好美ちゃんに伝えたし

 直樹にも・・・存在そのものが直樹へのプレゼントのようなぁ・・・ だから居ない今は穴がぽっかり開いてしまったみたいだし・・・埋めに行かないと・・・。
  みんな心で泣いてるけど、琴子がもっと泣いてるかもです。

No title

テンペスト』!!!
『テンペスト』を弾く直樹さん。。。
旋律を繰り返し激しく、切なく奏でて、抑えきれない気持を綺麗な指先にぶつけている、直樹さん。
琴子ちゃん、ペンダントを持っていくことが出来なかったね。。。
~~切ないです~~~。

。。。琴子ちゃんには無関心なひどい旦那のオカマ。←(オカマでよかった~!)
この先、オカマが綺麗な直樹さんを見たらいったいどうなるのか!?

優しい裕樹くんと好美ちゃんが、初めて踊るダンスを二人の大好きな琴子ちゃんの前で踊る事ができますように~~~。

祐樹'Sママさん、ありがとうございます。

入江くんが泣くことができない分、裕樹くんと好美ちゃんが泣いている…そんな感じでしょうか?
裕樹くん、あんなに嫌がっていた琴子ちゃんのことが大好きになっていたんでしょうね。
だから自分の晴れ姿、琴子先生が教えてくれたことを、琴子ちゃんの前で披露したいんでしょうね。

tiemさん、ありがとうございます。

帰っても不幸しか待っていないと分かっているのに、帰った琴子ちゃん…。
そんな琴子ちゃんを思うと、みんな涙が止まらないのでしょう。
幸せにしてあげてくてもできない入江くんと、そんなお兄さんを見ていることしかできない裕樹くん…。
本当にみんなが辛い状況です。
入江くんもできることなら、琴子ちゃんを助けたいのでしょうが…どうしていいか分からず、その苛立ちをピアノにぶつけているのでしょうね。

吉キチさん、ありがとうございます。

本当に吉キチさんが仰る通り、琴子ちゃんが入江家にもたらしたものはあまりに大きすぎたんですよね。

裕樹くんは素直になることを覚え、入江くんにはたっぷりの愛情を注いで…。
でも琴子ちゃんは周りを幸せにしただけで、自分は不幸の元に帰ってしまって。

きっとこんなにたくさんの贈り物をくれた琴子ちゃんに何も返すことができなかった悔しさで、入江くんはいっぱいなんでしょうね。

あおさん、ありがとうございます。

オカマなんて、そんな明るい言葉で表現できるような男じゃないのよ~琴子ちゃんの旦那!!
もうどれだけ酷い男か…私が全く愛情の欠片すら抱けない男なんで!
(いつもはどんなひどいキャラでも、それなりに親しみやすさを用意しますが…このキャラはもう、キュウイチ以来かもしれません)

琴子ちゃんがどんな気持ちで、直樹さんからの贈り物を置いて行ったのか…。
その気持ちを直樹さんも理解していて…。

だからこそ辛いんですよね。

拍手コメント、ありがとうございます。

佑さん
ええ、私と同じタイプですね!!(笑)
Sですよ、S!!でも、琴子ちゃんが可哀想な時はハラハラということは、Mの気もあるのではないかと思うのですが…。

Foxさん
そうですよ、この時にその天才的頭脳を使わずして、いつ使うという感じです。
入江家皆が重い気分になってしまって…辛いです。
そして召し上がったんですね。プレミアムロール(チョコ)!!
私も近日中に探しに行こうっと!!
そして私の方は未だに、『俺のティラミス』にめぐりあえずにおります…(涙)

あけみさん
入江くんが動くきっかけ、そうですよね。
それがないと動きようがないですものね。
重いこの空気を打破するのはまだまだ、時間がかかりそうです。
ハッピーエンドになればいいですけど♪

紀子ママさん
『テンペスト』、その雰囲気が入江くんの今の心境に合っているかなあと思って。
どんな気持ちで弾いているんでしょうね、本当に…。
再び、入江くんのピアノを琴子ちゃんが笑顔で聴くことが出来る日が来るのでしょうか?
早く来るといいですけれど…。

りあさん
そうです、第3楽章です!
入江くんはこの二カ月の間にどれだけの回数、琴子ちゃんに聴かせてきたのでしょうね…。
それが癖となっていて…可哀想になりました。
この二人がお互い想い合っていることを、小さな恋人たちも気が付いていて…本当にみんなが辛い状況です。
裕樹くんもあんなに悪態ついていても、ちゃんと先生と認めているし。
早く先生の前で踊る二人が見たいです♪
プロフィール

水玉

Author:水玉
『イタズラなkiss』のほかには『ゴルゴ13』が好きです☆
多数あるイタキスの二次小説の中で邪魔することなく、ひっそりとマイペースで我が道をゆきつつ生息しております。
そっと見守っていただけたら嬉しいです。

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当ブログは、『イタズラなkiss』の二次創作をメインとしておりますが、時折管理人の趣味や日々の出来事についての記事も書いております。

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二次創作については、いわゆる原作の隙間をぬった作品もありますが、主人公以外のキャラクターをメインとしたものや オリジナルキャラクターが出てくるものもございます。

そして、原作と違った時代(平安や明治やその他の時代を舞台にしております)、異なる設定(主人公を医者と看護師じゃない職業にしております)で書いてあるものが多いですが、原作を冒涜しているつもりは全くございません。

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